故郷長野と音楽と人生の話。 5歳の記憶、チャイコフスキーの「白鳥の湖」が苦手な理由。

冬になると毎年思い出す幼少期の鮮明な記憶があります。

人生の寂しさ、悲しさを初めて感じた体験でした。

初冬の朝目覚めた時、あまりの激痛に声をあげた。
起き上がろうとするが、激痛のため、足が動かせない。父母が異変に気付きどこかに電話をしている。
東の窓の朝焼けが、妙に悲しく感じ、部屋の天井をぼんやり見つめる他はなかった。

しばらくして父が私を毛布に包み、抱きかかえられて車へと運ばれた。
初頭の寒さの中、外は粉雪がチラついていた。
30分程度走った車は、上諏訪市内の病院に着き、どんよりとした雲からの粉雪を見ながら院内に入り、診察室に運ばれた。
診察室から出る時はストレッチャーに乗せられ、膝の上をアーチ形の枠をかぶせて、その上にふとんをかけた状態で、長い廊下を運ばれていた。
天井の蛍光灯が目の前を流れて行く。

長い廊下の突き当りに非常口があり、すぐ右の6人部屋の病室で、入って右側の真ん中の位置に収まった。


父の話だと検査入院ということらしく、その夜から寂しい入院生活が始まった。
夜に電気が消されると、非常口の灯りだけが、不気味に光っていた。

朝は頭の上のスピーカーから「白鳥の湖」が流れ、朝焼けに染まったスピーカーを、暗い気持ちで幾日も見上げた。
横長の薄茶色のネットをかぶったその箱を、いつまで、どれくらい先まで見ることになるのか、朝から不安な気持ちだった。
毎朝、検温、血圧、看護婦さんに言われるまま、無感情に腕を動かした。

味気ない朝食を食べながら周囲を見れば、自分より年上の男の子がパジャマ姿で食事をしている。
家族のことを想う。
保育園のみんなや先生のことも想う。
暗い気持ちに反して、大きな窓からは、太陽がサンサンと輝いていた。
そしてまた憂鬱な気持ちになった。

毎日のように採決が続き、地獄のような日々に思えた。
泣かずにいたら大きな注射器をくれると言うが、痛みに耐えられず泣いてしまう。代わりに嬉しくもない小さな注射器をもらった。


夜に父が仕事帰りに見舞いに来てくれたが、別れ際が辛かった。
膝の痛みは徐々に消えて歩けるようになったが、まだ入院が続いていて、家に帰りたくて仕方ない。父を追いかけて病室を飛び出したが、遠ざかる父の背中を見つめるしかなかった。

日中は時間をもて余し、子供が遊べる絵本やおもちゃのある子供部屋を覗くが、窓がなく、誰もいない部屋があまりに寂しく、寒々していて、中に入ることはなかった。
時々仕事の合間に父が来た時は、食堂に連れて行ってくれ、好きなビンのヨーグルトを食べるのが楽しみだった。


六人部屋に変化があったのは、入院一か月頃のことだったろうか。
ある日の朝、入ってすぐ左の別途の年上の男の子がいなくなり、ベットが綺麗に整えられていた。
仲の良かった看護婦に聞くと、元気になって退院したと言う。
でも、と思う。

いつも寝たきりで、元気のない男の子が退院できるものだろうか?
と疑問に思った。
もしかして、それはたぶん、この世界からいなくなってしまったのではないのか?もうずっと会えない気がした。
幼な心に、そんなことを思った。


いつも寂しがっている私を可哀そうに思ってか、仲の良い看護婦さんが、非常口のドアの上の窓に立って、だっこして、外を走る列車を見せてくれた。
駅を出た列車に陽があったって、列車の走る先に、家族の住む家や町があると思った。

エレベーターを遊び道具に上下させ、走り回れる程に回復した頃に、長い長い二か月の病院生活が終わった。

保育園の卒園式で歌った「思い出のアルバム」。
いつのことだか思い出してごらん、あんなことこんなことあったでしょ・・・。
ホールの目の前の大きな窓が、あの冬の寒々とした病室の大きな窓と記憶が重なる。
園庭の上に広がる青空を見つめながら、心の底から、あんなことこんなこと、あったと思った。


そして頭の上から毎日流れた「白鳥の湖」を聴く度に、検温と採血の場面が脳裏をかすめ、暗い気持ちを蘇らせるのだった。



長文となりましたが、最後までお読み頂き、ありがとうございました。













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