ブスなのにどうして自撮りを上げるのか?
真珠の首飾りの女と巷で呼ばれているイラストレーター・カシミヤヨウ(嘘)
カフェで隣の席の女子高生が「ブスのくせに自撮りあげてるww」「かわいければ許されるけどブスの自撮りは許されない」と大声で話しているのが耳に入った
なんだか懐かしい気持ちになった
人の容姿やステータスについて多感な時期は私も通り抜けてきたし、学生時代は周りもほとんどがそうだった
「このブス!」「ブスのくせに…」「なんでブスなのに…」
同時に今まで吹っかけられてきた罵声が頭の中でぐるぐると回り離れない
「ブス」という言葉は呪いだ、と思う
他人からそう言われたら、その瞬間、たちまち自分は「ブス」になる
私だって綺麗に生まれたかった、あの子みたいにかわいかったら、もし私が美人だったら…たらればばかりの妄想を並べ立て、コンプレックスという名の厚い壁で自分を囲う
だって私ブスだし、きっとブスだからこんな思いするんだ、ブスって何でこんなに生きづらいんだろう…
鏡を見るたび落ち込み、スマホやテレビの黒い画面に映り込む自分の姿を見るとテンションが下がる
僻んでばかりの人生、他人が羨ましくて仕方なくて、自分の心までどんどん「ブス」になっていく
美しいものが好きだからこそ、美しくない自分が認められなかった
いつも不思議だったことがある
テレビで活躍する女優やモデルが「実は容姿にコンプレックスがある」と言うたび、私の頭の上には大きなハテナマークが浮かんでいた
「この子がかわいいと思う」「えーあの子のほうがかわいいよ」「そっちの子の方が美人に決まってる」
かわいいって何だ?
明確なルールもないし、人によって基準も変わる
じゃあ、「ブス」って何だ?
旦那と付き合っていた頃、私が病気の療養のためしばらく会っていない時期があった
お義母さんから彼の写真がLINEで送られてきて、思わずびっくりしてこう返した
「彼、会ってない間にめっちゃ太りましたね」
お義母さんは「健康だったらそれでいいでしょ」とサラッと返した
数年経って、お義兄さんに久々に会ったときも「お義兄さんちょっと太りました?」と私が茶化すと、
横にいたお義母さんがまた「健康だったらそれでいいのよ」とサラッと言ったので、そこで初めてハッとした
他人の容姿について軽々しく口にしたりするのは、褒め言葉や冷やかしでも、相手にとても失礼なことで、今までそんなことも考えずに生きてきた自分を思いっきり恥じた瞬間だった
先ほどのカフェの女子高生が続けて言った
「私肌黒いし、白いの羨ましいよ〜」「そんなことないよ〜私は二重幅広いのが羨ましい〜」
SNSの友達の自撮りについて辛辣に非難していたかと思えば、今度はお互いの容姿を羨ましがっていた
かわいいとかそうじゃないかなんて、結局その人の価値を決めることでも何でもなくて、ただ容姿は個人を識別できる、親や先祖の遺伝子を受け継いで生まれてきた分子の配列なんだと唐突に思った
私の目は一重で小さい
でも、これは母譲りだ
私の鼻は丸くて団子っ鼻だ
でも、これは父譲りだ
私の肌はそばかすでいっぱいだ
でも、これは学生のときテニスでたくさん汗を流した勲章だ
今では自分のことを「ブス」と言われたことを思い出すことはあっても、ブスともかわいいとも何とも思わなくなった
ただ他の誰でもない自分だけの顔が、身体がここにあるだけだ
他人に対しても同じだ
この人のここがいいな、素敵だな、というところを容姿ではなく内面で見れるようになったし、自分と比べなくなった
恐らく、これがスタンダードなのだろう
ブスなのに自撮りをあげる理由、それは、私が私であるからだ