太宰治 メリイクリスマス を読んで
これを自分へのクリスマスプレゼントにしよ。
『メリイクリスマス』(太宰治)を分析する企画に参加することを。
(#課題小説を読もう)
普段は、太宰治を読もうとは、なかなか思えないけど、『メリイクリスマス』ってタイトルなら、今のクリスマスの気分を使って読めそう。
つぶやいてくださってありがとう!
分析してみます。というか、感想文かな?
軽快な始まりだなぁ。リズムがいい。きっと太宰治は、今の時代に生まれていたらミュージシャンになっていたと思う。野田洋次郎みたいな感じで。
冒頭で、主人公「私」は太宰治本人のこと?と匂わせてくる。
「私はそれまで一年三箇月間、津軽の生家で暮し、ことしの十一月の中旬に妻子を引き連れてまた東京に移住して来たのであるが、」
エッセイだと宣言されるより、興味がわいてきちゃう。自分のことなの? 違うの?って。
その上で、自分が来ている服装のことを書くなんて、まるでインスタで自撮り写真を載せるみたいじゃない。
くるめがすりの着流しに二重まわしをひっかけて、ぼんやり東京の街々を歩き廻っていた。
なんか、かっこいいし。
太宰治がインスタやってたらやっぱり見ちゃうんだろうなぁ。毎日投稿がありそうだし。
物語は、シズエ子ちゃんと出会うシーンへ。
ここで、シズエ子ちゃんの服装がまさにクリスマス!
緑色の帽子をかぶり、帽子の紐ひもを顎あごで結び、真赤なレンコオトを着ている。
こうやって、クリスマスを演出するのですね。。。いつか、こういう書き方やってみよう!
「私」がシズエ子ちゃんのお母さんと仲が良かったことを描くシーンになると、お母さんがどれほど、自分にとって「唯一のひと」であったかを述べる。一言でいってズルい男!!
お母さんは貴族のうまれで、美しくって、財産があるけれど、それが「唯一のひと」の理由ではないと言う。
じゃあ何?と思わず引き込まれる。
お金や美を上回るものとは?
それは・・・・
「綺麗好き」
それだったら、誰でも誰かの「唯一のひと」になれるチャンスあるじゃない?
無意識に掃除しよーって感じてしまったもの。
でも、結局一番の理由は、お酒を飲ましてくれるところだって、ガクっってなった。バカですか? って言いたい。
気持ちが短い間に随分振り回された。こういう風に書かれると、先が気になって、どんどん読んでしまう。
しかし、読み進めると、このシーンは、「私」が「バカ」であることの序章にすぎないことが分かる。
なんと、お母さんのことそっちのけで、かわいいシズエ子ちゃんが好きになりはじめ、ついには確信する。
”こいをしちゃったんだから”って。
お笑いみたいな、コメディーみたいなセリフだ。
吉本新劇なら、椅子から全員転げ落ちるよ。「唯一のひと」じゃなかったんかーい。って。
おまけに、シズエ子ちゃんも自分のことを好きだと思い始めるし。
ところが、物語は急展開。シズエ子ちゃんを口説いていると、
お母さんが実は亡くなっていたことを知るのだった・・・
「私」のバカ具合は、いっそう引き立つ。
そして最後のシーンは屋台。シズエ子ちゃんと静かに飲んでいると、同じ店にいた酔っ払っいが、通りがかった外国人に叫ぶ
「ハロー、メリイ、クリスマアス。」
虚しい。
誰かにどんなに悲しいことがあっても、街は少しも、悲しい色をしてなくて、日々は淡々と過ぎていく。人々もバカみたいなことばかりしてるし。「私」もその一人だった。
この小説を読み終わって、人は人だなぁ。自分で強く、楽しく生きていくしかない!と思いました。
そして、やっぱり太宰治は、今の時代に生まれても、インスタグラマーでもなく、ミュージシャンでもなく、小説家だっただろうなと思う。
こんなおかしみと、悲しさがまじりあったものは、小説が一番似合ってるもの。