![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/169588379/rectangle_large_type_2_f1dc7585cb9ed297e6bc3fa41a79d2b2.png?width=1200)
四書五教<大学>(ルビ付き素読用)〜年始に音読するといいことありそうな文章〜
遅ればせながら新年明けましておめでとうございます。
2025年をスタートさせるにあたり、年始の親戚の集まりで高校に入った従甥(じゅうせい:いとこの子供)に「正しい」とは何かという話を東洋思想的な考え方で話させてもらいました。
今日は、その話を紹介しつつ、年の初めに読んでおくとよい一年が迎えられそうな「大学」を紹介させてもらおうと思います。
「正しいとは?」をなぜ話したくなったか
なぜこの話をしたかったかというと、私の家の反省でもあるのです。
私の家には、庭があり木がいくつか植えてあります。
亡父は孫が産まれるたびに記念樹を植えることを楽しみにしていました。
私の弟の子供が生まれた時に、20株の萩の木を植えました。
萩の木がどれほどの生命力を持っているか、ご存じでしょうか?
植木屋には、どんな広い場所に植えるのかと驚かれたとのことでした。
毎年見事な花を咲かせてくれるのは嬉しいのですが、1年で大きく成長するため毎年剪定が必要で20株ともなると大変な重労働です。
孫が生まれた時の父の歓びがいかほどだったことか、思いを馳せるだけでも涙が出そうです。
しかし、残された者にとっては苦労の種。
自身が亡くなることを想定していなかったのもあると思いますが、なかなかどうしての量です。
さて、冒頭の「正しい」とは何か?に戻りましょう。
正しいとは?
漢字はよくできていて、正しいという漢字をみると分かるようになっています。
正しいという字は、止めるという漢字の上に一が書いてあります。
つまり、一線で止まれることが正しさだと教えてくれているのです。
過ぎたるは及ばざるが如し。
一線を越えずに止まれるかどうか、そこに真価が問われるというのです。
管理ができる範囲を超えると苦労の方が勝ってしまい、趣も薄れてしまいますね。自分のことに翻ってみると身が引き締まる思いです。
そんなことを考えていると、「至善(しぜん)に止(とど)まるにあり。」という一説がある四書五教の「大学」を年始に読んでみたくなりました。
正月の朝に読んでみるととても気持ちが良かったので、ここにメモがわりに記しておこうと思います。
黙読ももちろんよいですが、音読するとまた一層いいものがあるので、ぜひ声に出して読んでみることをお勧めしたいと思います。
大学(素読用)
大學の道は明徳を明らかにするに在り。
民に親しむに在り。
至善に止まるに在り。
止まるを知りて后定まる有り。
定まりて后能く靜かなり、靜かにして后能く安し。
安くして后能く慮る、慮りて后能く得。
物に本末有り。事に終始有り。先後(せんご)する|所を知れば、則ち道に近し。
古の明徳を天下に明らかにせんと欲する者は、先ず其の國を治む。
其の國を治めんと欲する者は、先ず其の家を齊う。
其の家を齊えんと欲する者は、先ず其の身を修む。
其の身を修めんと欲する者は、先ず其の心を正しうす。
其の心を正しうせんと欲する者は、先ず其の意を誠にす。
其の意を誠にせんと欲する者は、先ず其の知を致す。
知を致すは、物を格すに在り。
物を格して后知至る。
知至りて后意誠なり。
意誠にして后心正し。
心正して后身修まる。
身修まりて后家齊う。
家齊いて后國治まる。
國治まりて后天下平らかなり。
天子自り以て庶人に至るまで、壹に是れ皆身を修むるを以て本と爲す。
其の本亂れて末治まる者は否ず。
其の厚くする所の者を薄くして、其の薄くする所の者を厚くするは、未だ之れ有らざるなり。
此を本を知ると謂う、此れを知の至と謂ふなり。
補完性の原則(補完性原理)
大学を読んでいるともう一つ思い出したので、補完性の原則(補完性原理)を記述しておきたいと思います。
補完性の原則とは、決定や自治はできる限り小さい単位で行い、できないことはより大きな単位の団体で補完していくという考え方です。英語では「principle of subsidiarity」とも呼ばれます。
一人でできないことを、家庭で行い、
家庭でできないことを、隣人で行い、
隣人でできないことを、自治区で行い、
自治区でできないことを、市で行い、
と個人を起点に一つ大きな単位で補完することで補い合って実行していく原則を言います。
市でできないことを、県で行い、
県でできないことを、国が行う。
と言った具合です。
主に地方分権や地域自治の文脈で用いられる言葉ですが、EUの統治原則などでも適用されています。
個人を起点にできるだけ小さい単位で考えることに大事なポイントがあって、これを逆にしてしまうと、無理が生じることがポイントだと考えます。
逆に考えるとは、国ができないことを県に実行してもらい、県でできないことを市に、市でできないことを自治区に、自治区でできないことを隣人に、隣人でできないことを家庭に、家庭でできないことを個人にやってもらう。
となってしまうと、個人や家庭の責任に押し込められてしまうことが多くなると予想されます。
個人や家庭でできることには限りがあって、それぞれの事情があることも考慮しなければいけないとすると、逆からのアプローチ(国→個人)では公平性を保つのが難しく、適正な範囲を超えることが多くなり、無理が生じることが多くなります。
だからこそ、個人を起点に一つ大きな単位で補完することで補い合っていくという補完性の原則の考え方は実現性のうえで大切な考え方だと思います。
「大学」の中では、国を治めんと欲するものは、先ず其の家を齊(ととの)う。
という一説から国→家→個人の在り方にググッと寄っていくのに対して、補完性の原則は、家から国に至るまでをいくつかの段階を持って表現してくれます。
昔の中国においての家の大きさが今と比べて大きなコミュニティを形成していたという時代背景もあると考えられます。
一方、補完性の原則はヨーロッパの国々が自治を勝ち取ってきた歴史的背景から生まれたものだと推察できます。
最後に、Chatgptを用いた「大学」と「補完性の原則」の比較、考察で終わりたいと思います。
【コラム】『大学』にみる「補完性の原則」との共通点
『大学』は四書五經の中でも人根的な学問としての地位を持つ書籍です。ここでは、個人の徹底的な修養から始まり、家庭、社会、国家へとの和の担保を解くフレームワークが記されています。一方、補完性の原則は、社会の構成要素が自らの作用を発揮した上で、高い権限や組織がそれを補助する考え方です。一見すると別個のアプローチに思えますが、この二者は比較しやすい共通点を持ちます。
1. 個人と社会の調和
『大学』では、「修身齊家治国平天下」という階段を経て、個人の徹底的な修養が社会全体の和に繋がると説きます。これは補完性の原則が持つ考え方とも共通しています。すなわち、個々の単位、言い換えれば個人や小さな組織が自立的に役割を果たし、大きな協力の先に社会の和がたらされるという構造です。
2. 段階的な発展
『大学』は「明徳を明らかにすること」を個人の出発点とし、その心情が家庭、社会、国家と渡る段階的成長を重視します。補完性の原則もまた、責任と行動が最も近いレベルで始まり、そのレベルで解決できない場合に次のレベルが関与するというアプローチを採用します。この段階的考え方も大きな共通点です。
3. 共通善の追求
『大学』において、個人の自己修養は最終的に「平天下」という全体の善を目指します。補完性の原則でも同構造であり、個々の単位が協力して社会全体の善を実現することを重要視します。
4. 個人の主体性と責任
『大学』は、個人が自己修養を通じて内なる徳を高める必要性を説きます。同構造に裏付くように、補完性の原則は個人や小規模なコミュニティの自主性や責任を守り、それを奪わない形で支援することを重視します。
まとめ
『大学』と「補完性の原則」は、個人や小さな協会の重要性を認め、そこから社会全体の発展と和を目指すという共通の理念を持っています。これらは個人の成長と共同体の発展が互いに補完し合うことを説き、現代社会の構築に不可欠な視点を提供しています。
参考文献
最後まで読んでいただき、ありがとうございました!
いいなと思ったら応援しよう!
![貸本屋モト](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/77707152/profile_b53efc2967b0f4d88bb9a37f59eddd2f.jpg?width=600&crop=1:1,smart)