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(6)死とNVCの裏側で〜空誉上人と後藤又兵衛〜

前回記事からの続き


合元寺の空誉上人

話を戻して、ふたたび戦国時代へ。
宇都宮氏の配下が待機を命じられて皆殺しにされた合元寺。
その合元寺の住職だった空誉上人は、黒田官兵衛孝高が姫路から九州入りする時に帯同させた僧だったとも伝えられていて、朝鮮出兵の際には黒田家に同行し、秘書役を務めたとされています。
私の苗字の一族の記録の中には、朝鮮陣に同行した人物の記録があり空誉上人とも関わりがあったかもしれないと想像が広がります。
私自身もここ数年姫路に仕事で滞在することが多くなっていて、なんだかご縁を感じてしまいます。

鎮継は又、長政の朝鮮陣に、孝高の豊後陣に、共に働きて黒田父子の福岡転封に従い、筑前に赴きけり。

日本家系協会
日本家系協会

この空誉上人も最終的に黒田家に処刑をされたという言い伝えがあり、さまざまな形で伝えられているにも関わらず、歴史的事実として残っている情報が少なく、宇都宮氏の伝承と同じように謎に満ちています。
これは、前回の記事にも書いた為政者側から語られる歴史しか正式文書として残されていないがために、敵方となって殺された人たちの事実が文書として残されておらず、伝承や口伝、戯曲などでしか伝わっていないために、歴史的事実がわからない話に尾ビレがついていくことで原型がわからなくなってしまっている状態だといえるでしょう。

黒田家に殺された宇都宮一族にも空誉上人にも怨霊伝説が残っています。

これは仮説ですが、事実を曲げて為政者側の意向で歴史から消し去ろうとしたからこそ、民衆の知恵は歴史から忘れさせないために怨霊伝説などとして残していった物語が怨霊伝説なのかもしれません。

不確かな情報しか残っていない空誉上人ですが、
残っている話を簡単に紹介したいと思います。

空誉上人と後藤又兵衛

時代は、関ヶ原の合戦の前後。
空誉上人は、多くの伝説や逸話を残し、空誉上人をモデルとした歌舞伎や戯曲、小説にもなっている。
その話は黒田家のお家騒動と紐づけられ、黒田家に処刑された空誉上人の怨念伝説は福岡の地を舞台としている。

黒田家の家臣に後藤又兵衛という勇将がいた。幼少の頃、父を亡くし黒田家に引き取られ黒田長政と兄弟のように育てられたと伝えられている。
黒田家の家臣として大変活躍した人だと伝えられているが、黒田官兵衛孝高の死後、黒田から出奔する。

私の一族の話にも、後藤又兵衛と戦ったとの記載があり、空誉上人と朝鮮であっているかも?というだけでなく、後藤又兵衛との接点も出てきて他人ごとではなくなってきます。

別伝には鬼木掃部が勇将たりし事を伝え、後藤又兵衛と戦いしとも記されたり。

日本家系協会
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話を戻して、
黒田家家臣だった後藤又兵衛は、黒田長政との確執から黒田家を出奔し、慶長16年に大阪城に入城している。後藤又兵衛の大阪城入城によって、黒田家は江戸幕府に疑われることとなる。
黒田長政と又兵衛との確執とは、又兵衛が豊前国小倉の細川氏と頻繁に書簡を交わしていたことが原因だとも言われている。
 黒田長政は交際を止めるよう注意し、誓紙も交わしたそうだが、その後も又兵衛は細川氏と交際を続け、さらに播磨国姫路の池田輝政とも書簡を交わしていたことが明らかになり、最終的に出奔している。
黒田家は又兵衛と親交のあった空誉上人を大阪城に派遣し、 福岡に戻るよう又兵衛を説得するが、又兵衛はこれを拒否。福岡に戻った空誉上人に、筑前福岡藩の第2代藩主・黒田忠之は激怒し、豊臣方と内通している疑いで、即日地福寺で逮捕され、須崎の浜で釜に入れられ、背中を割られた上、 熱く煮えたぎった鉛を流し込まれ惨殺された。と。
遺体はその場に捨てられ、再三の懇願にもかかわらず、引き取りは許されない。仕方なく空誉上人の弟子が、深夜に忍び込んで、亡骸を背負い、浄念寺に持ち帰り埋葬したと伝えられている。埋葬した所に立っていた松の木に鳥が止まると立ちどころに落ちたとの伝説も残っている。

空誉上人が供養されている福岡の浄念寺に残る空誉上人縁起には次のように残っている。

空誉上人縁起
仰せに名高き空誉上人と申すは播州明石の人にて仏道儒学且つ武術に勝れたる黒田家帰依の名僧なり。 黒田家中興の祖如水公が播州姫路より豊前中津に入国の際扈従し来り今の合元寺を再興し開基となる。 制韓の役に従軍し黒田公の秘書役を勤め関ヶ原戦後公の筑前に封ぜらるるや上人随従して福岡に来り今の橋口に寺地を賜り一寺を建立開基となり地福寺と称す。 又水鏡天満宮を勧請して鎮守をする今の県社水鏡天満宮是なり。 又公より寺領200石を賜り慶長14年には如水公御父君心光院殿満興宗円大居士の法要を同寺に於いて営み阿弥陀経千部を修せらるるにあたり絵師に画像を画せ上人に其賛を命ぜられたり。

是より先黒田家の重臣にして上人と別懇の交り深き後藤又兵衛基次故ありて福岡を退散 慶長16年関東大阪手切の際大阪城に入る。 これが為関東の疑ふところとなり公大いに憂い窃ひそかにに基次を召還して害せんとし屢しばしば密使を派し甘言を以って百方帰国を勧むるも基次言を左右して帰らず。 公の煩悶益甚し折柄め倭奸の徒基次の帰らざるは全く 空誉上人の国情を内通せるによるとざん言を為す。 公之を信じ大に憤り直に捕吏を地福寺にむけ上人を逮捕。 即日洲崎の浜にて背部を割き熱鉛を鋳込みて残死せしめ死体はその場に捨置かれたり。 これ実に慶長16年辛亥8月6日の出来事にて沙門の身に極めて重き刑罰なり。

当山の開基桂空舞上人は師弟たる縁故を以って死屍の下賜を願いたれど公の怒り解けず 許しなきのみならず之か為地福寺の法牌画像並寺領等は同寺の法脈たる浄念寺に下附さるべきものも没収せられたり。 舜道上人は師匠の死を決し弟子舜沢と共に10日の夜月の落ちるのを待ち浜辺伝いに忍び行き 夜明け窃ひそかに死体を背負い帰り来て心ばかりの土葬をいとなみ師の高恩に報じたる。

此後は事もなく公より何の詮議なく又世に知る人もなく打過ぎたり。 只墓の傍に一本の松ありけるが鳥類之に止れば忽ち落ちて死す。 それより誰言ふとなく其松の下に空誉上人の墓ありと追々流布し又信心の者立願すれば其験ありとて此事次第に云い伝へて今の世に宿願の人絶えす。 後小祠堂を建立し毎年8月朔月より6日まで祭典を行い参詣の人群集す。

因に空誉上人の刑罰に処せられたる場所として口牌に伝りたるは県庁の裏手葦沼の内にありて其個所には未だ曾て葦草の生じたることなしと伝へり。 明治43年九州沖縄八県連合共進会々場として埋立てられ現在県庁舎裏官舎の敷地なり。 昭和2年官舎に数度霊夢を感じたる人ありたりとて其個所に一小祠堂を建立祭典を執行せらる。

本年は恰あたかも空誉上人刑死より348年回忌に相当す。 毎年8月5日より2日間当山に於て祭典を執行し大いに慰霊の誠意を表し茲ここにいささか其縁起を述べ御同情を希ふ所以なり。

浄念寺 空誉上人縁起

空誉上人の伝承については複数人の話が重なりあったことで逸話的に事実確認が難しい話として残っているようだ。
この辺りについては、書籍「呪詛の時空」が詳しい。

つづく


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