1987年
瀬川瑛子の震えるような歌声で「い〜のぉちぃ〜くれなぁぁぁいぃぃぃぃ〜」と流れ、その大柄な体型から柔和なおっとりとした特異なキャラで、中森明菜や中山美穂、近藤真彦などのアイドルの中に紛れて注目度を上げていったこの年。
それまで一世を風靡していたおニャン子クラブが解散。
お笑いの世界ではとんねるずが爆発的な人気を誇り、この年にテレビで放映開始となった「ねるとん紅鯨団」がブームとなって、後の合コンの火付け役となった。
テレビドラマでは、トレンディドラマの全盛期を迎え、都会的でおしゃれな男女の恋愛に夢見る若者が世に溢れていた。
その一方で、暴走族、ツッパリ、リーゼント、パンチパーマに象徴される不良達が、少しずつ減りつつある一方、アメリカンストリートファッションの流行にのって、チーマーと呼ばれる不良達が増えつつある時代でもあった。
善が20歳になると祖母の進藤美代は、善を自分の養子にした、その結果、善は、安河内善から進藤善に名前が変わった。そうして美代は、自分名義の不動産を整理し、名義を善に変えていった。
そして、そのひとつひとつの物件、土地を美代は善を連れて現地を確認して回った。
善はその不動産が全国各地に点在していることに驚いた。
北は北海道の山奥から南は沖縄の石垣島まで…。
大部分の不動産は、北海道出身の祖父名義のものを生前に美代名義に変えたものらしかった。
善は美代ばぁちゃんと2人でそのひとつひとつの不動産を見て周り、登記簿や図面と照らし合わせて写真を取って、その先々の役所で名寄せ帳、評価証明書などを取得して、内容を確認していった。
そして、美代は、地元の不動産屋に行って、不要と思われる不動産で売れるものは全て売って処分していった。
善は、その手離す手離さないの選択理由をひとつひとつ美代からの説明を聞き入って理解していった。
後々、善が考えるのは、美代ばぁちゃん、どんだけ時代の先を読んでいたんだよ…である。
善は美代を連れて、この時、久々の福岡にも訪れた。が、地元には戻っていない。
福岡市内にも美代名義の物件がいくつかあって、美代曰く、福岡はこれから先,飛躍的に発展する地方都市だから手離すなと善に言い聞かせた。
なぜそれがわかるのかと聞くと美代は、福岡が九州の中心都市であること、中国、韓国とのアクセスがいいこと。そして地震が少ないことだと…。
なんで中国、韓国?と善が聞くと、過去の歴史を振り返って、かつて世界はイギリスを中心に回っていた…が、その後、アメリカに世界の主導権は移っていった。そして今、日本はそのアメリカに取って変わるほどの勢いで飛躍的に発展している…ほんの10数年の間に…日本の今の浮かれ気分のバカな連中は、今の好景気が未来永劫、続くと思っているが、そんなことはない。
10年後、日本に取って変わるのは恐らく中国や韓国だと…。だから、善、日本は今、国内だけで馬鹿騒ぎしているけど、必ずこの先、日本国内だけでは、どうにもならない状況になる…だから、今のうちから日本の中だけじゃなく世界に目を向けておきなさい。
あんた、東京に帰ったら、ひとまず英語と中国語、韓国語の勉強を始めなさい。
必ずこれから先、絶対的に役立つから…と。
善は、わかった…と答えた、
善は東京に戻ると早速、英会話、中国語会話、韓国語会話の教室に通い始めた。語学教室は、思いの外、大変でかなり難しかったが、教室事態は面白くて善は真面目に通って少しずつ語学力を向上させていった。
善は、語学勉強と平行して宅地建物取引士…いわゆる宅建の勉強をしていた。これは昨年、福岡から上京してきてすぐに美代ばぁちゃんから、この資格を取れと言われ勉強し始めて、今年、試験を受けて取得した。
去年から今年、美代ばぁちゃんに付いて、散々回った不動産の売り買いで宅建資格がものを言うことを思い知った善だった。
この資格取得は、美和ばぁちゃんもよく頑張って取ったなと褒めてくれた。
善は、この2年ほどの間に美代ばぁちゃんから連れ回された結果、その都度、美代が不動産関係者を始め、店舗のオーナー、証券会社の営業、銀行の人間などに会って、美代はその都度、あたしの資産その他は、この子に全部任せることになるからと言って回り、現にこの1年で全ての資産名義を美代は進藤善の名義に変えてしまったから、皆、善さん❗️善さん❗️と言い寄って来るようになっていた…が、美代は、事前に…上手いこと言って連中は擦り寄って来る…だけど、誰ひとり信用しちゃダメだと…向こうはうちらのことを人として見ていないから、単に金ヅル…でかい金が入っている財布だと思って近寄ってくるの…連中はその財布の紐をいかに緩めさせようとして近付いて来ているの…だから、付き合いはしっかり距離を取って、目先の美味しい話しに飛びついて財布の紐を緩めるんじゃないよ…と。
連中は、こっち側が使われるんじゃなくて、こっちが上手に使うの。どう使うのかって言うと、1番は情報よ。国内外問わず目ぼしい企業の経営状況や社内の人事情報…人事ってのはその危機の良し悪しを反映するからね。
そして知り得た情報は、そのまま鵜呑みに信用しちゃダメ…当然中にはガセネタもあるからね。
知り得た情報の中で、ゴミ情報は、サッサと捨ててピンと来た情報のみを確保して、その情報の裏を必ず自ら取ること…その情報が間違いないかどうか…これは徹底的にやんなさい。
人をはめて追い落とそうとする輩は、こっちが情報の裏を取ることを見越して、裏を取られても大丈夫なように情報操作をすることだってするからね。
裏が取れない場合や、何か匂うなって思ったらその情報は捨てなさい。
株証券、不動産投資、金融で生き抜くためには、いかに正確な嗅覚と高いアンテナ、そしてタイミングを外さないセンスというものが大事なの。
これは経験の積み重ねでしか養われない。
でも、あたしが見込んだだけのことはあって、あんたにはそのセンスがある。
失敗もするだろうけど、大事故に遭わなきゃ大丈夫。その失敗を糧に同じ失敗を繰り返さないようにさらに嗅覚と研ぎ澄ませて、次に繋げていきなさいと。
この年の夏を過ぎた頃、美代は入院した。
病状は良くなかった。
美代は胃癌だった…。
ばぁちゃん…自分が胃癌だって知ってたのかよ?
美代は、あぁ…知ってたよ…もう2年前にわかった時に余命2年って言われていたからね…と笑って言った。
なんだよ…それ…ちゃんと俺にも言っておけよ…んな大事なこと。
美代は笑って、んなこと言ったところであたしの寿命が伸びるわけじゃないし、でもあんたって孫の存在がわかったし、あんたはできる子だから、あんたにあたしの持っている全てを引き継ぐことの方が大事だからね。
気にしないていいのよ…この2年間、善とあっちこっち旅をして、懐かしい土地を回り、美味しいものを好きなように食べて飲んで、あんたの成長を見ることができだからね。
あたしから教えることは、もうほぼないよ。
あとは、あたしが教えてやったことを基本に、あとはあんたの好きなようにやっておいき。
ばぁちゃん…ありがとうな…ばぁちゃんのおかげで、夢にも見たことのないよう未来が開けたよ。
あんたがそう言ってくれるなら、あたしも嬉しいよ。
善…これだけは覚えておきな…男って生き物は、女によって人生が左右されちまう…でも、男は1人じゃ生きていけない…どうしても女が欲しくなる…金を使って遊ぶぐらいならいいのよ…でも、遊びじゃない女を選ぶ時は、ちゃんと熱くならず、頭を冷やして、しっかりと見極めるようにしなさい。
これを肝に銘じておきなさい。
バカな女にハマって身を持ち崩した男を何人もあたしは見て来たからね。
あんたは、そうならないように十分気をつけなさい。
あぁ…わかったよ。ばぁちゃんが心配しないようにしっかりやるよ。
こう話してから、1ヶ月も経たないうちに美代ばぁちゃんは意識不明となり…2ヶ月を保たずにあの世に逝ってしまった。
善は、両親の時にはしなかった通夜式と告別式を斎場で取り行った。
艶々、葬儀には、不動産関係、証券関係で付き合いのあった上役、複数の銀行にあっては何人か頭取クラスまで参列した。
そして、銀座のママや赤坂の料亭の女将、さらには数名の保守系の代議士も数名、焼香に訪れた。
善は、孫として喪主をしっかりと務め、生前お世話になりました故人に変わり厚く御礼申し上げます…と深々と頭を下げた。
初七日、四十九日法要まで執り行い、生前、美代ばぁちゃんから言われていたとおり、指定さていた目黒区内のお寺の納骨堂に納骨した。
目黒の美代の木造家屋は、美代が生前、自分の家財をあらかた処分してしまい、大したものは残っていなかったので片付けは簡単に済んだ。
これだけは大切に取って置きな…間違いなく先々で言い値がつくからと…言われた物だけを残して大切に保管している。
善は、他に美代から助言を受けて、数十年先に値がつきそうなものと言われたものを、ちょこちょこ買っては、この家に運び込んでいた。
で、善は、美代が所有していた麻布の5階建てのビル(すでに自分名義に変更している)の最上階をリフォームして住むようにした。
複数ある都内のビルの中からここを選んだ理由はただ一つ、美代からこのビルは先々きっと破格の値がつくから、不況になっても売らなくていいと言われた物件だからだ。
1階には、最新のインテリアを施した高級イタリアンレストランが入っていて、常に予約待ちの人気店だ。
2階は最新の流行ファッションを揃えた高級ブティック、3階は芸能人御用達と言われる美容室が入り、4階はワインをメインとしたBARとなっている。
そして空いていた5階を善の住居に改造したのだ。善は入居後、各フロアーを訪ねて、挨拶して回った。
1階のイタリアンレストラン「Marco」のオーナーは、吉田総一郎と言って40歳のシェフだった。美代ばぁさんとは会ったことはなかったが、オープンした時に祝金と花を送ってくれたことに感謝していた。
善は、1番近いところで予約を入れてもらって、食べさせてくださいとお願いすると、ビルのオーナーさんですから、言ってくだされば営業時間外でも結構ですからいつでもおっしゃってくださいと、最高の対応をしてもらったことが嬉しかったが、当たり前の時間に予約をして食べさせてもらうことにした。
2階のブティック「Chara※キャラ」の店長は、斉藤利佳子26歳、そのままトレンディドラマに出て来そうな黒髪ワンレンロングヘアの美人さんだった。身長もこの頃の女性にしては高い方の165センチ近くあって、ボンキュッボンって感じのスタイル抜群の女性だった。
善が挨拶をしに行くと、軽いノリで返して来るかと思いきや、とても礼儀正しく丁寧に挨拶を返してくれた。
本店は赤坂にあるらしく、ここは2号店になるとのこと。店のオーナーは本店にいるらしく、連絡をして挨拶に来させますと言っていたので、わざわざ出向いてもらわなくても大丈夫ですと…赤坂だと、行く機会もありますので、お店の方に顔を出させていただきますと返した。
美代ばぁちゃんとの面識はなかったが、やはり出店の際に祝っていただいたことに感謝していた。
3階の美容室「moose」のオーナー店長は、重光透35歳。理容師と美容師の免許を取得した後、アメリカ、ヨーロッパを渡り歩きファッションの勉強をして3年前に帰国して、ここにお店をオープンさせ、友人のファッション誌の編集長に頼み掲載してもらうとこれが当たり、女優や人気女性歌手まで来店するようになり、今や東京で5本の指に入る有名美容室になっていた。
スタッフにはとても厳しそうな感じではあったが、善には礼儀正しく挨拶を返してくれた。
善もカットの予約を入れさせてもらい、近々カットしてもらう予定だ。
4階のBAR「Belushi」のオーナーバーテンダーは、佐々木信介55歳。元都内高級ホテルのBARで働いていたが、5年前に独立してここにお店を出した。1階から3階に来店したお客さんが4階のBARに興味を持って来店してくれるようになって、毎晩ほぼ満席になるほどの人気店になっているそうだ。
皆と同様、若い善に礼儀正しく挨拶を返してくれた。善が酒好きと聞いて、佐々木オーナーは、善にオーナーがお酒が好きでうちに通ってくださるのなら、いつ来てもすぐに飲めるようにカウンターの端の一席を常に空けて置きますよと言ってくれた。
善にとってこの4店舗の入ったビルは、この先、色んな意味で善に幸運をもたらしてくれることになるのだが、この時は想像だにしなかった。
美代の死後、美代が言っていたとおり、銀行を筆頭に不動産会社、開発会社、証券会社などあらゆる人間が善のところに足を運び接触を試み、投資話を持ちかけてきた。
保守系代議士の秘書にいたっては、生前、美代とどれだけ美代と懇意にしていたかを善に話し、これまで同様に献金してくれとお願いしに来た。
善は、その全ての人間と会い、十分前向きに検討させていただきますと丁寧に対応しつつも、全てスルーして、知り得た情報を吟味して、良い匂いがすると感じた案件には、自らの足で企業を見て回り、取引先などを巡っては、末端の営業の話を聞き、企業の上層部が使用しているクラブや料亭を調査し、善に寄り添って来る連中に聞いて、その店を知っている奴に連れて行ってもらい、顔作りをした上で、単独で来店して狙う企業の情報を仕入れた。
こうして、伸び代のある企業を選定して、株価を見定めて投資していった。
そして善の買った株は軒並み高値をつけていった。
善の株式市場における株価変動の匂いを嗅ぐ嗅覚が優れていることに気付いていた美代の推測が間違いないと決定付けることが、この年の秋に起こった。
美代が買っていた米国企業の株を10月の上旬に全て売却していたことだ。
善がこれを売却した理由は,中東で起こっていたイランイラク戦争の激化とアメリカのイラクへのテコ入れが過剰になっていたことを懸念して、アメリカ市場の株価に不安感を持ったためだった。
証券担当者は、もったいない…売るとすれば年末まで待った方がさらに益を得やすいとしつこく善を説得しようとしていたが、美代からの教えをしっかり守って、担当者の言うことを無視して全て売却した。
また併せて海外市場に影響を受けやすい日本企業の株も一緒に売却したことだ。
そしてブラックマンデーが勃発したのは、この約一週間後のことだった。
善は、大損を回避、逆にこの時の売却益で値下りした安価な優良株式を買うことに成功した。
この時の善に売るなと言っていた証券会社の担当者は、ブラックマンデー後、善の前に姿を見せることはなかった。
このことをきっかけに一部の証券関係者の中で、あの情勢の中、ブラックマンデー直前に嫌な匂いを嗅ぎ取って、株を売却して難を逃れ、逆に多大な益を取得した進藤善のことを知る者が増えたのは確かだった。
日本の株式市場は、アメリカや香港、ヨーロッパほど下落幅は少なかったが、これ以後、更に買いが進み日経平均株価は登り調子になっていった。
1987年、バブル好景気の初期…大東京は薔薇色状態だった。
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