【私が夢を諦めない理由】不思議ちやんが初めて褒められたとき
【はじめに】心を病んでいた思春期
前回の記事で紹介した伊原先生の美術の授業を、私が初めて受けたのは、中学二年生のときでした。
あの、私が病んでいた時期です。
その頃の私は、学校では大きな声で話すことができず、宿題も忘れてばかりいて、学校の先生や両親からも叱られ続けており、学校を休むように勧められたり、精神科を受診したりすることもあったほど、精神的に不安定な時期でした。
伊原先生の美術の授業での制作
伊原先生の美術の授業を受けるようになったのは、ちょうどその頃のことでした。
そして、例にもれず、マイペース過ぎる私は、製作物の提出期限を守れず、一学期の授業が終わったあとに、夏休みも美術室へ通い、課題の続きをしていました。
もちろん、美術の課題に取り組んでいる間、夏休みの部活動には参加できなかったため、所属している卓球部の練習は、欠席が続き、部員や顧問の先生には、冷たい態度を取られることもありました。
これは、提出物の期限が守れないという私自身の落ち度によって招いた結果であるため、批難されても、仕方ありません。
本来なら怒られるべきことです。
それなのに、なんと、このとき、伊原先生は、そんなマイペース過ぎて周囲に迷惑ばかりかけている私のことを、とても褒めてくれたのでした。
初めて「短所」が「長所」になった!
これは、人生で初めての経験でした。
伊原先生は、ほかの生徒とは毛色の違う独特ななにかを作ろうとしている私の制作過程を「そんなことしてるから、いつまで経っても終わらないんだよ」などとは言わなかったのでした。
逆に、伊原先生は、時間をけて丁寧に課題に取り組む私の姿勢を、プラスに評価してくれたのでした。
「細かいね」「丁寧だね」と、私のことを何度も褒めてくれるのでした。
いままで提出期限に間に合わなくて
怒られていたばかりの私が
むしろ、そのことで褒められるのは
初めての経験でした。
伊原先生は私のことを「授業時間内に課題を完成させることができなかった問題児」としてではなく、「授業時間以外も使って時間をかけて作品を制作する熱心な生徒」として受け止め、そのように接してくれたのでした。
優しさを受け止めきれない「自信のなさ」
とはいえ、性格が歪んでいる私は、伊原先生がどんなに褒めてくれても、最初の頃は、それを素直に受け取ることはできませんでした。
優しい伊原先生が、劣等生の私を気遣って励ましてくれているだけなのだと、斜に構えた捉え方をしていました。
その頃の私は、伊原先生の優しさや温かさに尊敬を抱くことはあっても、まさか自分が本当に褒められているだなんて、夢にも思っていませんでした。
作品の完成と、精神状態の回復
そして、そんなやり取りを重ねつつ、日々が過ぎていく中で、提出期間を大幅に過ぎたものの、夏休みが終わる前には、私は作品を完成させることができました。
そして、驚くことに、一時期は自宅でも声が出なくなるほどに落ち込んだ私の精神状態は、作品が完成するこの頃には、休まず学校に通い、友達や家族とも以前のような会話のやり取りができる程には回復してきていました。
私が精神保健福祉士になったきっかけ
これは、あとで知ったことなのですが、実は、この頃の私のように、精神的に悩んでいるときや落ち込んでいるときに創作活動をすることは、心の回復にとても大きな効果が認められており、ストレス軽減やリラックス効果など、様々なポジティブな効果があるそうです。
もちろん私の精神状態がかなりの短期間で回復したのには、伊原先生との関わり以外にも、たくさんの人の支えがあったことは事実です。
ただ、自分のことを「迷惑をかけることしかできない生き物」だと思い込むほど自信を失っていた私にとって、この経験は、とても大きな経験になりました。
伊原先生から自分の短所だと思っていた部分を褒められたこと、創作活動をすることにより実際に精神的な落ち込みが回復したこと。
私が精神的に悩んでいる人の支えになりたいと、いまの職業を目指したのは、このときの経験が大きなきっかけになっています。
不思議ちゃんの快進撃。まさかの入賞
そして、このエピソードには、まだ続きがあります。
なんと、伊原先生は、口で優しく褒めてくれただけではなく、通知表でも、五段階評価で、最高評価にあたる「五」を私につけてくれたのです。
課題の提出期限を守ることが苦手過ぎる私にとって、その数字は、通知表で初めてみる数字でした。
しかも、それだけでなく、
このときの作品は、学年全員の作品を市の展覧会に伊原先生が出品したところ、なんと私の作品が、学年で一人だけ入賞したのです。
気持ちの変化。翌年も入賞
中学二年生のときの展覧会での入賞は、私が生まれて初めてもらった参加賞以外の賞でした。
そして、翌年も、またもや提出期限を大幅に過ぎて提出された私の作品が、同じ市の展覧会で、学年で一人だけ入賞を果たしました。
けれど、一度目と二度目で、私の気持ちは大きく違っていました。
一度目のときは「偶然」だと思っていましたが、二度目のときは、なにかそれとは大きく違う感情がありました。
不穏な言動をする優等生のT橋さん
実は、私が中学三年生のときの春、クラス替えがあり、私はそれまでほとんど関わることがなかった「T橋さん」という女の子と同じクラスになりました。
T橋さんは、それまでクラスが同じになることはなく、小学校も違ったため、彼女ときちんと話しをしたことはありませんでしたが、私はT橋さんのことが、とにかく苦手でした。
というのも、T橋さんは、勉強も運動も学年でトップクラスの成績を収め、友達も多く、絵に描いたような優等生ではあったのですが、頻繁に周囲に聞こえるような音量で、スクールカーストの下位のほうに所属する同級生の悪口を言う癖のようなものがありました。
また、悪口を言うだけでなく、カーストが下位のほうの同級生には、あからさまに冷たい態度を取ることが日常的にありました。
T橋さんの攻撃方法
そんなT橋さんは、当然、カースト最下位に該当する私には、とても冷淡に接する上、ときおり、私のほうをみながら、近くにいる友人の耳元でわざとらしく何かを囁くという、謎の攻撃を仕掛けてくることがありました。
たちが悪いのは、その囁きの際、「さやかってさぁ」と、私の名前は、私の耳にも届くくらいの音量で発音し、それ以外の内容は、私には分からないほどの小声で囁くところです。。。
だから、実際は、あのときも、そのときも、T橋さんが、なんと言っていたかは、私には永遠に分かりません。
T橋さんの攻撃が発動したとき
そして、中学生三年生のときの春、そんなT橋さんの囁きが、美術の時間にも発動しました。
T橋さんは、私の席の近くにいた奈美ちゃん(仮名)に突然声を掛け、私の描いているスケッチを凝視しながら、奈美ちゃんに何かを囁いたのでした。
もしかしたら、あのとき、T橋さんは、私とは全く関係のないことを囁いていたのかもしれませんが、私はそうは思いませんでした。
なぜなら、T橋さんからの囁きを受けた奈美ちゃんが、とても困った顔をして、「あぁ」とだけ低い声で呟き、仲が良いはずのT橋さんへの同意を積極的に示さないようなリアクションをしたからです。
落ち込む私の妄想
実は、奈美ちゃんは、私と同じ卓球部に所属していて、奈美ちゃんと私は、教室ではほとんど会話を交わすことはかなったものの、それなりに放課後は仲良く交流していたのでした。
T橋さんは、多分、それを知らなかったのだと思います。
勉強もできて、友達も多く、人気者の彼氏もいて、スタイルも良く、美人で、多くのクラスメートからチヤホヤされ、丁重に扱われている奈美ちゃんが、私のような人間と仲良く過ごすことがあるという奇々怪々な現象があることをT橋さんは想像すらできなかったのかもしれません。
奈美ちゃんは、勉強ができる優等生ではあったものの、人によって態度を変えることはなく、誰とでも気さくに関わるタイプで、私だけでなく、本当に誰とでも仲良くなれるような「人間関係の天才」とでもいうような才能の持ち主でした。
そんな奈美ちゃんが、困った顔で「あぁ」と、低い声で呟いたのです。
私には奈美ちゃんのそのリアクションが、T橋さんの機嫌も損ねず、私のことも傷つけないギリギリのラインの奈美ちゃんの天才的な感覚が発揮された絶妙な反応にしか思えなかったのです。
傷ついた私の末路
美術の時間は、私にとって、とても楽しみで大好きな時間だったのに、その日から、それまで丁寧に描いていたスケッチをみる度に、T橋さんが囁いてきた姿が頭に浮かび、私にとって、苦痛を伴う時間になりました。
もともとマイペースで制作に時間がかかりがちな私の手が、さらに遅くなっていきました。
そんな事情もあり、授業時間内に私がスケッチを完成させ、そのスケッチを飾るための額の制作まで終えることは、到底不可能で、中学生三年生の夏休みも私は何日も美術室へ通う日々を過ごすことになりました。
全員に優しい伊原先生
そして、そんな私に伊原先生は温かい言葉を掛け続けてくれました。伊原先生の存在は、私にとって「救い」であり、大きな心の支えでした。
しかし、とはいえ、伊原先生は、私だけを褒めていたのではありませんでした。
伊原先生は「みんなの作品がどれも素敵すぎて選べない」という理由で、市の展覧会にニ年連続で学年全員の作品を出展していたからです。
この展覧会は、市内の小中学校の児童、生徒の作品を展示する展覧会で、伊原先生以外のほかの学年の先生やほかの学校の先生の中には、選び抜いた数名の生徒の作品のみを出展している場合もあっため、全員の作品を必ず出展しなければならないという規則のようなものが存在する展覧会ではなかったようでした。
しかし、そんな展覧会で、伊原先生は、ニ年連続で「全員の作品を出品する」という決断を下したのでした。
私の作品は、目立っていなかった
学年全員の60人分以上の作品を展覧会に出品するというのは、珍しいことなのかどうかは分かりませんが、恐らく数名だけの作品を出品するよりもとても手間のかかることで、時間もかかるはずです。
けれども、私はこの作業を、伊原先生が「優しさ」だけでやっているようには感じませんでした。
というのも、「みんなの作品がどれも素敵すぎて選べなかった」という伊原先生の言葉が嘘とは感じられないくらい、ほかの同級生の作品が、センスのあるクオリティーの高いものばかりだったからです。だから、当然、校内に作品を展示していたときも、私の作品が特別目立つということはありませんでした。少なくとも私はそのように感じていましたし、ほかの誰かから「あなたの作品がずば抜けていい」と褒められることもありませんでした。
むしろ、私には、ほかの同級生の何人かの作品のほうがセンスが光っていて上手なようにみえていました。
だから、中学二年生のときも、中学三年生のときも、学年で一人だけ、私の作品がその展覧会で入賞作品に選ばれたと聞いたときは「どうして私なのだろう」と、私自身でさえ不思議に感じていました。
私の作品だけが特別に目立っていたようには、全く思えなかったからです。
私の作品の特徴
ただ、そのような背景の中で、私の作品の際立っていた点や相違点のようなものをあえて挙げるとしたら、それは「制作時間の違い」です。
授業時間中も集中して制作に取り組んだ上、授業が終わり、夏休みに突入してもなお制作を続けた私の作品は、完成までにかかった時間が一番長かったことは間違いありません。
「提出期限を超えてもなお制作を続ける」という、通常であれば褒められない行為、というより、むしろ「怒られるべき行為」が、なんと、伊原先生の「学年全員の作品を出品する」という行動により、学校の外部の審査員から、二度も「プラスのほうの評価」を受けるという結果になったのでした。
そのため、私はニ年連続で表彰されたものの、自分の美術センスが高いという結論には、1ミリも至っていませんでした。
私が選ばれた理由は「センスがよかったから」ではなく、「時間の使い方が著しくほかの同級生と違っていたから」だけなのだといういうことを私自身が一番分かっていたからです。
初めての成功体験
とはいえ、この経験は、私にとって、大きな成功体験になりました。
「提出期限を守れない」という私の短所が、「ひとつのことに時間をかけることができる」という長所として、プラスの評価をされる場合もあると知ったからです。
そして、この長所が発揮されたとき「周りの同級生にも劣らないこと」、いや、「優秀な多くの同級生よりもプラスのほうの評価を受けたこと」は、勉強も運動も特別できるわけでもなかった私にとって、とても大きな自信になりました。
そういえば(妄想はやめましょう)
制作中は、手元のスケッチをみる度に、T橋さんの囁く姿を思い出して嫌な気持ちになっていたのに、展覧会での入賞という結果が出て以降は、私はいまでも祖父の部屋に飾られているあのときの作品が目に入る度に、当時のT橋さんの意地悪な表情と仕草を思い出して、ほかでは味わうことのできない独特な晴れやかな気持ちを味わうことができています。
最後に
あの頃の私の「選択」に感謝
とある人物からの評価では「不良品」と判断されても、それが絶対の価値観とは限らない。むしろ「不良品」とされた理由となる部分が、違う場所では「価値」としてプラスの評価を受けることもある。
マイペース過ぎる性格ゆえに、宿題を忘れてばかりいて、小学生の頃も、中学生の頃も、怒られ続け、自分のことを「不良品」のように感じていた私が、その後も、しぶとく「不良品」のまま生き延び続けているのは、中学生のときのこの体験があったからこそです。
そんな「不良品」のことを、「最高傑作」だと愛してくれる人にも、好きと言ってくれる人にも、大切にしてくれる人にも出会えているいまの私がいるのは、中学時代あの頃、先生や両親に怒られ、同級生から冷たい目でみられても、自分の気持ちを大切にすることを選んでくれたあの頃の私のおかげです。
あの頃の私のマイペース過ぎる「選択」には、感謝してもしきれません。
大人になった現在の私
私はいまも、あの頃の私に支えられています。
だから、あの頃に抱いた「私も精神的に悩んでいる人の助けになれるようになりたい」という夢を、叶えてあげられる大人になれるように、いまも日々、足掻き続けています。
正直な告白をすると、大人になってから、社会を知っていく中で、あの頃の私の「綺麗すぎる夢」を手放したくなるときが、実は何度もありました。
「現実は、あの頃の私が思っているより、ずっと複雑で、理不尽で、そんな社会を変えていくなんて、私にできるはずがない」
「自分が生きていくだけでも大変なのに、ほかの人のことを助けている場合ではない」
と、心の中では、何度も夢を諦めようとしていました。
でも、そんな無難な考えが頭を支配しそうになりながらも、いまも夢を追いかけ続けているのは、あの頃の私に、誰よりも私が感謝しているからです。
夢を追いかけることが辛くなったときは、必ず、いまの自分があるのは、過去の自分がいるからなのだと思い出しています。
あの頃の私の夢を叶えてあげられるかどうかは分からないけど、「ゆっくり」でも「なにかをすること」を続けていくこと。
そうしていくことで、命が尽きるまでに「夢が叶う」ところまで辿り着くかは分かりませんが、あの頃の自分への最低限の恩返しにはなるのではないかと考えています。
「最低限の恩返し」を続けつつ、いつか「最高のプレゼント」も用意してあげられるような、そんな大人になることを目標に、これからも、いまの私ができることを地道に続けていきます。
私の変わらない夢
そして、あの頃の私が、その後の「人生の支え」になるような貴重な経験ができたのは、劣等生の私にも優しく関わってくださった伊原先生と出会えたおかげです。
私も、いつか、誰かにとっての、ヒーローになれたらいいなぁって。。。。
大人になったいまも、ちょっぴり思っています。
「あなたに出会えてよかった」
と、誰か一人にでも、感謝してもらえる存在になれるように、これからも精進していきます。