【短編小説】アイソレーション
「僕、人を殺してしまいました」
土の匂いが夜風に舞い上がる。土に汚れてその美しさは隠れてしまった。黒髪が茶色く染まって、視界の端に映り込んだ。空は相変わらず星を敷き詰めて輝いている。自由に腕を伸ばした木々たちが、僕から空を隠すように揺れた。
シャベルが不規則なリズムを刻んでいる。その手を止めても、シャベルの音は鳴りやまない。
深夜一時過ぎ、僕は履歴の下から二番目にあった名前に電話をかけた。久しぶりの電話が自白と懺悔になるとは思いもしなかった。電話の向こうから聞こえてきた気の抜けた声。寝ていたのかと問うと、寝ようとしたところだったと返事があった。大袈裟な反応が返って来ないのは、都合がよかった。それでもあまりにも感情の伴わない彼の反応に僕が面食らう。
「創作の話じゃないんですよ」
付け加えた僕に『わかってるよ』なんて言う彼の言葉には深く追求しないようにした。
『今何処にいるの』
どうにかしなきゃでしょ。僕の目の前の惨状を予見したように彼は言う。電話の向こうの空気が揺れたのだけがわかった。
「馬鹿なんじゃないんですか」
「自分のこと?」
「あなたのことです」
一方的に切られた電話から一時間ほど経つと、電話の相手が坂をのぼってやってきた。自転車にシャベルが二本くくりつけられてあり、カゴにはバケツとゴミ袋が見えた。バケツから白く覗く布をタオルかと思ったが、どうやら軍手らしい。溜息の代わりに吐いた罵倒を軽く受け流し、笑顔のままで僕を手招く。張りつけたような彼の笑顔が少し怖くなって、連絡を取ったことを後悔した。
「やっぱり、処理するなら埋めるのが手っ取り早いかなって思ってさ。あ、細かくした方が楽だったかな。のこぎりとか、用意したほうがよかった?」
「いや、人体を切るのは結構な重労働って言いますし」
「へえ、詳しいね」
「実体験とかじゃないですからね」
「疑ってるように聞こえた?」
へらへらと笑いながら背を向ける。くくりつけていたシャベルを外し始めた彼の姿をぼんやりと眺めながら、彼の言葉に突っ込むポイントを間違えたことに気がつく。埋める? 何を? 目の前で倒れ込む、人の形を成しただけの肉塊を?
「ま、まってください」
シャベルを此方へと差し出す彼にやっと制止の声をかける。驚いたような顔をして、彼が僕を見つめていた。「なんで?」彼の疑問が夜の静けさに溶け込んだ。木々の生い茂る山の中、神社の麓にある錆びれた公園にふたり。他に誰かいるはずがないのに、誰かが見ているような気がして少し大きな声を出した。誰かに聞かれたら本当は困るのに。
「本当に、埋めるの?」
彼は笑ってそれ以外にどうするの、なんて聞く。代替案なんて始めからないけれど。既に嵌め終えた軍手で握ったり開いたりする右手の動きをなんとなく眺める。僕以上に彼は「本気」なのだ。どうして、彼がここまで本気になっているのか僕には理解ができない。死体をどうしようもできなくて、僕が警察にお世話になることになっても、彼は何も困らないのに。積極的に罪に加担しようとする彼の考えが読めなかった。何か裏があるのだろうと考えるのが自然だが、その向こうにある彼の思考なんてわからない。リスクを負ってでも、僕の現状を好転させるべく彼は今此処に居る。彼に縋るしかないのだということだけは確かだった。それがなんだか情けない。そんな気持ちを打ち消すように「なんでもない」と彼の差し出す軍手を受け取った。
*
「星を見に行こう」
数時間前、僕はサークルで仲良くなった女の子に声をかけた。天体観測が趣味の僕等はすぐに意気投合した。今考えるとあの時間はデートだった。
僕の好きな公園。思い思いに腕を伸ばした木々は天然のフォトフレームだ。そこから覗く星空は穢れなく純粋な輝きを僕に見せてくれる。本当に大好きな場所だ。この景色を目にするたびにその思いは強くなる。
神社の近くにあるこの場所は、少子化や遊具の劣化も相まって暫く子供が遊びに来ることもないようだ。あまりにも人が入らないものだから草木は荒れ放題になっている。その様子が気味悪がられ、足を踏み入れる人は殆どいなくなっていた。だから余計にこの場所が好きだった。誰にも邪魔をされずにひとりになれるのは幸福だった。辛いことがあっても、この場所に来て星を眺めれば全て忘れられる。いつだって僕は此処でこの星空に勇気を貰っていた。そんな場所に誰かを招待するなんて、我ながら驚いた。
僕は多分、浮かれていたのだ。
「綺麗でしょ」
彼女は僕の言葉に困ったように笑う。なんだか不気味な場所ね、と付け加えた。大好きな場所を皆口を揃えて「不気味」と形容する。
「不気味なんかじゃないよ、此処は過ごしやすいんだ」
彼女は「変よ」と言って、転がっていた石ころを足で小突いた。とんとんと転がって、石は地面を傷つけていく。汚れちゃった、と薄桃色のスニーカーの靴先を眺める彼女が小さく笑った。その笑顔がなんだか気に食わなかった。星が好きだって、僕に声をかけてきたから、僕はこの秘密の場所を初めて教えたのだ。僕のことを好きみたいに囁いて、その気にさせた。代わりに綺麗な星を見られる場所があると言ったら嬉しそうにはしゃいだ姿を見せたのはキミじゃないか。僕のことを知りたいんじゃなかったの。それなのにその笑顔はなあに。
両手に残る気怠さと、足元に転がったこぶし大の石を見つけて全てを理解する。ああ、神さま。僕は貴方の言葉を受け取りました。貴方のいる場所を否定する人には天罰を下すのです。
黒髪が星空に呑まれていく。肌の白さと、ほんのりと茶色い大きな瞳だけが脳裏に焼き付いていた。彼女の瞳は僕を恨むように此方を見上げている。血走った瞳は何も映していない筈なのに、この瞬間に罪を抱いた僕を咎めているように見えた。静かだったはずのこの場所を風が通り抜ける。急に体の内面が冷えていく。それなのに、じんわりと肌の表面だけが熱くなって汗ばんだ。触れた皮膚は冷たいままなのに、気持ちが悪い。喉のずっと奥が熱い。舌がしびれたみたいにじんじんとした。心臓がきゅう、と締め付けられて呼吸が苦しくなった。声を上手く出すことができない。はくはくと口を動かす。今の僕はさぞかし滑稽な姿だったろう。生きるために必要な動作を忘れてしまったようだった。ただ、感情の失った彼女の瞳を見つめ続けることしかできなかった。
「…………汚い」
ようやく僕の口から零れたのは、目の前の彼女を罵倒するような言葉だった。この場所に彼女はふさわしくなかった。そう、元々彼女はこの場所に来るべきではなかったのだ。この場所に呼ぶべきではなかったのだ。後悔は僕の頭を冷やすのに丁度いい。僕は騙されただけなのだ。
「これ、どうにかしなきゃ」
彼女がそうしたみたいにこつんと靴先で彼女の額を小突いた。石とは違ってその頭は転がることはなかった。代わりに反動で横を向く。僕から目線を外した彼女は何処を見ているのだろう。その視線の先には特に興味はなかった。そんなことよりも冷静になった頭が警鐘を鳴らすのが煩くて、この音を止めたくて必死になった。指先がやけに冷たいのは、この光景に恐怖を抱いているからだとでもいうのだろうか。馬鹿みたいだ。
無意識でかけた電話は、短いコールを残して繋がる。久しぶりだというのに、昨日も会っていたような気がする。僕は冗談を言うように、言葉を紡ぐ。何一つ嘘は吐いていないのに、この言葉には現実味がなくて思わず笑ってしまった。
「沢山掘ったねえ」
相変わらず気の抜けた声が空気を振るわせた。芋堀りにきた親戚同士じゃないんだぞ。そんな突っ込みは心の中に仕舞いこんで「そうですね」と返した。大人だからね。成人男子でも余裕で横たわれるほどの穴を掘った僕等は荒い呼吸を誤魔化すように乾いた笑いを零した。なんでこんなことをしているのに笑えるのかわからなかった。笑うくらいしかやることがなかったのかもしれない。笑うことで、今を現実と認めないようにしていたのかもしれない。ひとつだけ確かなのは、もう僕の指先は冷たくないということだけだ。
「転がっていた石とか、彼女の血液とか、全部混ぜ込んじゃったし、もう大丈夫でしょ。こんな山奥、誰も来ないんだし」
「だと、いいですね」
「なあに? 弱気じゃない?」
「本当に、バレないとでも思っているんですか」
「そんなこと気にしながら穴掘ってたの?」
軍手のままの手で鼻の下を擦る。漫画のように、そのまま土が鼻下について、ほんのりと影が濃くなったのがわかった。月明かりがあるとはいえ暗いこの場所では、彼の詳しい表情はよくわからない。彼もきっと、僕の表情をわかっていないはずだったのに、「そんな顔しないでさ」と彼は付け加える。僕はどんな顔をしていたのだろう。
「ああ、楽しいね!」
彼は急に大きな声を出した。きっと今、彼は満面の笑みで僕を見つめているのだろう。楽しいという言葉に違和感を覚えることはなかった。自分の中にある感情が楽しいという言葉に当てはまるかと問われればそれは否だったが、現状を楽しいと感じる彼を異常だとは思わなかった。
風が静かに僕たちの間をすり抜けていく。額に滲んでいた汗を撫でる。ひんやりと身体の表面が冷たく感じた。先ほどとは違い、心地よい冷たさだ。
「……笑ってんじゃん」
指先が僕を指している。軍手の土の匂いが鼻先を掠めた。無意識に上がった口角を確かめるように、彼とお揃いの軍手に包まれたままの手で頬に触れる。土と古くなった金属の混じりあった匂いが強くなった。普段よりも頬が力んでいる。口角が上がっているのが指で触れて、初めてわかった。
「変なの」口をついて出たのは、半分茶色の中へと姿を隠したあの女と同じ言葉だった。
「興奮してる?」
「さあ」
「教えてくれてもいいのに」
「あなたはどうなんですか」
シャベルを持ち直して彼は背を向けた。僕の質問には答えてくれなかった。気がつけば、僕はもう冷静だった。目の前の作業を淡々とこなしていくだけの自分が少し怖くなった。楽しいと表現した彼も充分おかしいはずなのに、自分のことだけが異常に感じる。先ほどまで口角をあげていたという事実に寒気がした。
僕は人を殺して、その相手を地面に埋めているのに、いつもみたいに笑えるんだ。
「はは、どうかしてるや」
漏れ出た言葉に返事をするように一際強く風が吹いた。木々が暴れるように揺れる。がさがさとした音が不気味だった。ああ、見ている。僕を、僕らを。
「いつまで突っ立っているの」
帰るよ、と彼が言った。気がつけば、シャベルはもう自転車にくくりつつけられて、白かった軍手もすっかり茶色くなってバケツからはみ出ている。足元に空いていたはずの穴はもう何処にもなかった。彼女の姿ももうわからない。元々此処では何もなかったみたいだ。この身体は全てを覚えているのに、この瞳は全てを映していたのに、消えてなくなってしまった今となっては、僕の妄想の産物に過ぎない。
「終わっちゃったね」
名残惜しそうにぺたぺたと地面を叩く。まばらに生える雑草が、一部だけ消えている。やはりその場所に「居る」のだ。
「これで俺たち、共犯者だね」
立ち上がった彼が僕に囁く。初めて、彼の表情から笑顔が消えていた。聞き返す間もなく、彼は僕から離れた。見慣れた笑顔がそこにはあった。
木々が僕の心を代弁するように騒いだ。じゃあ、と手をあげて来たときと同じように軽やかに坂を下っていく。見上げた空は嫌味なほどに綺麗に瞬いている。取り残された僕の心だけが虚しく揺れていた。