8、固まった絵の具と君の心を解く方法
放課後の美術室には絵の具の重く甘い匂いが沈んでいる。窓を開けると風が匂いを床から持ち上げ、埃と混じる。たまらなくなって廊下へ続く扉を開けると同じクラスの七瀬と目があった。
美術室は校舎の中でも少し離れた場所にあり、美術室に用事がない生徒がここにいるのはかなり珍しい。部員の誰かに用事があるのだろうかと考えたが、生憎今日は部活が休みの日で、そんな日にも絵を描きたい病気に苛まれている私しかここにはいない。
「何しているの」
見つめあうのも気まずくて、ただ疑問をぶつけたが、自分で思っていた以上に冷たい響きとなって彼女にぶつかった。クラスが同じとはいえ七瀬とはあまり話をしたことがない。一瞬にして彼女の前に壁ができたのがわかった。やっちゃった、と思うよりも早く「さあ」と七瀬が首を捻った。あまりにも変な返しだったのでこちらも間抜けな声が出てしまう。自分の行動がわからないなんてことがあるか。
「誰かに用事とか」
先ほどの反省を活かして少し明るい声を出すように努めてみる。相も変わらず「さあ」と的を射ない答えが返ってくるので、参ってしまいそうになる。「変なの」と思うと同時に七瀬が声にしていた。心が読まれたのかと驚いた。多分変な顔をしていたのだろう。ぼおっとした顔をしていた七瀬が初めて笑った。
「絵の具の匂いがして」
犬か、と言いたくなるのをぐっと堪えた。
「好きなの?」
と、問いかける。七瀬は少し悩むそぶりを見せて「そうなのかも」と言った。
「東宮さんも好きなんじゃないの?」
急に視線が私の後ろに向く。興味が私じゃなくなったことに安堵しながら振り返ると、描きかけの私の絵がそこにあった。美術部に所属しているのは、これ以外に自分が出来ることがなかったからだ。運動は苦手だし、他の文化部は集団芸術であることがほとんどだ。一人の世界に入り込めるのは、絵筆を持っている間だけで、それが心地よいからここにいるだけだ。
「私は、別に」
七瀬の足下を見る。薄汚れた上履きが、私たちが通ってきた日数を感じさせられた。また七瀬が「変なの」と言うかと思ったけれど、彼女は何も言わなかった。
「好きだったのかもしれないな、私は」
七瀬が口を開く。何を、とは聞けなかった。七瀬は私の脇を擦り抜けて美術室の中へと入っていく。七瀬が入ってきたことでふたりきりになってしまった。七瀬が私の絵の前で立ち止まる。心の中を見られているような気がして落ち着かなくなる。
「良い匂い」
絵の感想としてはあまりにも異様だ。それなのに少し気分が良い。キャンパスの上でまだ水分を含んだ絵の具が微かに重力に乗って垂れてきている。私の絵を眺める七瀬の横顔を見ながら、彼女がここに来た目的が本当に私の絵だったらいいのになんて思った。