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【超短編小説】せよ
目が合った。
この表現が正しいのかはわからないが、直感的にそう思った。
住居の植え込みからふらりと姿を現した猫は、毛並みからして野良だろう。それにしては少しばかり肥えていた。茶色の毛が重く瞳にかかって、視線の先が本当に自分に向いているのかは自信がない。それでも、目が合ったと思った。
足がぐっと固まって、動けなくなる。
「にゃあ」
鳴く。低い声だった。
「と、でも鳴けば満足かな」
「は」
猫はそれらしく鳴いたあと、流暢に喋った。猫はそのまま後ろ足で器用に立ち上がる。僕は声が出ないままその様子を黙って見ていた。目線が上がる。僕の胸元くらいまでの高さになって、僕は少しだけ猫を見下ろすような形になった。
まだ、声が出ない。ゆっくりと息をする。気がつけば車や自転車の音が聞こえない。ここには猫と僕しかいないように感じた。否、いないのだ。気が付けば猫とふたりきり。ひとりと一匹きり、だろうか。
だからこれは夢なのだと思った。猫が立って喋るなんてありえない。幼い頃に映画で見た長靴を履いた猫であるならばまだしも、目の前にいる猫は素足だった。
「なんか、余計なことを考えているみたいだが」
「余計なって」
やっとの思いで声にする。喉が渇いていると思った。猫は前足で頭をかいて、僕を見上げる。
「人間」と僕を呼ぶ。
「あの看板が見えるか?」
猫は器用に指を折りたたんで斜め前に向けた。僕はその指に動かされるようにして、その先を追った。道路に沿ったところに建っている一軒家が目に入った。猫が出てきた植え込みの所有地だ。レンガ調のベージュの壁には似合わない真っ黒な看板が目に入った。
「『ネコと和解せよ』」
猫は満足そうに読み上げる。神という文字が歪に剥がれ落ちた結果そう見えるという画像はインターネットで見たことがある。しかしながら、あれはコラージュではなかったのか? 猫はこれが正しいとでも言いたげに首をもたげ、こちらをきっと睨むように見る。
「こんな風に書いてるってんなら、そっちから話しかけてくるべきなんだぜ」
猫はまるで僕に、僕らに非があるように言う。「だって、これは人間の言葉だろう」と続けるその態度に僕は少し腹が立った。勝手な勘違いで、傲慢に振る舞われるのは癪だった。
「あれは」
「元は『神』だとかいうなら、黙ってな」
先手を打つみたいに猫は言う。
「人間の代表として、俺たちと手を組んで欲しい」
猫は僕に手を差し出す。手元だけ毛が薄く、濁りのある赤色の肉球は少し乾いて見えた。
「どうして僕が」
「それは『神』が決めたきまぐれだろうよ。だって、俺はネコだぜ」
答えになっていない説明をして、猫は笑った。
「和解とは、譲歩だ。互いの意見はこの際飲み込んで、従ったり、妥協したりするってことだ。自分たちの使っている言葉の意味くらいはわかるよな」
「意味がわかることと、理解することはまた別のことじゃないかな」
「口の回るガキだ」
「ガキって」
猫は言う。
「ちなみに、これは夢じゃねえぜ」
拳を握るみたいに手を何度か動かしてみる。頬を撫でる風の温度も、乾いた喉がひくつく感覚も全てリアルなことが怖かった。
一歩進んで猫が僕の手を取る。
「これが俺の譲歩、な」
勝手なことをするな、と言いたいのに、目の前がぐるりと回った感覚がして、猫の声だけが僕の中に残った。