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「ライブに行くほどの熱がない」

推し、というものに出会ったことがないんです。

とはいってもこれまでの人生でアイドルにも一通りハマったし、現在はVtuberの切り抜きを毎日漁る日々、友達と好きな作家さんについて語ることもしばしば

しかし純然たる「推し」と聞かれると悩む自分がいる

今までお付き合いしていた方にはそれはそれは猛烈な「推し」がいて、そのライブに行くために生活を切り詰め、きついことがあってもMステをリアタイするために家路を急ぎ、誕生日には私のそれと同程度の熱を注ぐ、そんな人達でした。

それが心底羨ましかったんですね

なぜか自分がとても寂しい人間のような気すらする
結局いつもの安居酒屋で、銘柄もわからないハイボールを飲みながら何かを語るその日々に彼女ら、彼らのような「熱」があるのだろうか

なんというか、「推し」という言葉の市民権が自分の中で強くて神聖視しすぎているきらいがあるんですね

あと自分の中で大きなものが「好きなものに対してお金を消費していない」という一種の罪悪感

好きな歌手はいるけどライブに行ったりCDを買ったりはしないし、好きなVtuberはいるけど投げ銭したりはしない。「お金を消費する」という行為が私の中で一種の「免許」なのかな。図書館で借りた本の話を友達にすることに憚りを感じるのもそのためか。

もっと「推し」って気楽でいいはずですよね
もっと「熱」って眠っているはずねすよね

そんなことをぼんやり考えていて、こないだ人に話したときにこんなことを言われまして

「私に力一の話する時のあなたは熱を持ってるよ」

瞳孔が開くかと思った
私はずっと自分は熱がないしょうもない人間だと思っていたけれど、その人からするとずっと熱に満ちていたらしい

だとするとこれらは実は「熱」なのか

米津玄師さんにとって、「名前を呼ぶ」という行為が夏目漱石が言うところの「月が綺麗ですね」に近い意味を持つことを熱弁したり
好きなVtuberのラジオの好きな回を宅飲みで延々と流したり
居酒屋で「20世紀少年」の話を30分して何も覚えてなかったり
大好きなカクテルの成り立ちを考案者の恋人の名前まで覚えて、ドヤ顔で友達に説明したり

でんぱ組の最上もがだって、HKT48の朝長美桜だって、乃木坂の井上小百合だって久保史緒里だって、Vtuerの夕陽リリだってジョー・力一だって、米津玄師だってワンオクロックだって、有川浩だって三浦しおんだって原田ひ香だって、ゾロだって赤葦だって檜佐木周平だって

いや、熱多いな、私
平熱高いから気付けなかったのかな


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