見出し画像

演劇って自己表現なんですか(まず、役者目線から)

アートの役割。
自己表現?みたいなことって言われますよね。

言いたいことが言えない苦しみは、恐らく多くの人が味わうものでしょう。
社会は言いたいことが全て言えるようには作られていない。と思う。基本的には。

でも言いたいことが言えず、飲み込んでしまうと、それはたぶん体にとって毒になるように思います。

だから、日常では吐き出せない色んなことを、みんな色んなところで吐き出している。飲み屋の愚痴然り、SNS然り。

恐らくアートもそのひとつで、世間的には、吐き出す先として肯定的?なんですかね。ものによるか。

じゃあ演劇が言いたいことを言う場所、自己表現の場所だと考えて。それはどうやって機能しているのかって考えるわけです。

まずは役者目線で考えたい。演劇は自己表現になるのか。

喋る言葉は他人の名前が付いた、他人が書いた言葉。
喋り方や動きは、自分で考えながら演出に指示されて修正。
そもそも役者としての演じ方、体の使い方、発声の仕方、などなど。均質に訓練されていくような風潮も常に、支配的の1歩手前ぐらいの感じで蠢いている。

どうも役者には、表現できる「自己」があまりないようにも思える。

逆に、舞台上での感情の発露。意図的に発生させたとしても、感情は役者自身のもの。
役者自身の今までの経験から引っ張ってきた、「本物」の感情として引き出すように。という演技指導もわりとメジャー。

あとは当て書きや、「身体性」を重視するような脚本・演出。
役者がそのままの人間として脚本に現れて、生きた身体を持つ人間として舞台上に生きる。
うん、なんか「自己表現」っていう言葉が持つ色合いに近い感じがする。

それが一体、どれほどの演劇作品において実現されているか。そもそも、それ演劇として正解なのか。

役者は自己表現を求めて演劇ができるのだろうかという、最近の疑問です。

(画像は1回生のとき、舞台上で20分ぐらい死んだまま話してた私)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?