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演劇って自己表現なんですか(役者目線の、つづき)

これの続きです。(めっちゃ間あいた)
続きと言いつつ、なんの答えも出していません。


役者は、自己表現のために演劇ができるかという話です。

役者が、自分の固有の身体を活かしてもらった作品なら自己表現という雰囲気に近づくのではないか。それか、感情の発露は、その感情自体を人生経験から流用したものであれば、自己表現に近いのではないか、ということを書いたような記憶。

ここでは後者についてをもうちょっと考えたい。
感情の発露。

そもそも自己表現って何が良いって、言いたいこと言えるのが気持ちいいってことじゃないんですかね。
言いたい事が言えない抑圧、鬱憤。自己を抑え込むのが世の常だからこそ、自己を表現する場としての芸術は重宝されるのではないだろうかと。

多分前回書いていたのは、「抑え込む」という経験の記憶を舞台上に引っ張ってきて、それに対する「解放」を想像するようにして「解放」の演技を行う。じゃあ自分の中では抑え込んだものの解放、できてるね!感情の面では!気持ちいいね!みたいなことでした。わかりやすさの為に陳腐に書いてます。馬鹿にしてません。

でもそれじゃあ本当の「自己表現」、つまり役者自身の経験としての「抑圧」と、それに伴う「抑圧」の感情。そして表現することが「解放」の経験となって、「解放」の感情を起こす。という道筋はできてないんじゃないかと。

そこで思ったのは、「抑圧」の経験と感情が発生する場所から、もう全部舞台上で起こってもいいのではないかということ。

ざっっつに図示するとこんな感じ。
下でもいいじゃん?ってこと。発生は全部舞台上。

舞台上で勝手に苦しみ、舞台上で勝手に開放されて、なんか救われた気持ちになる。地産地消みたいは自己表現。
でもこれ、必要のないものを産み出してその場で消している、というようなただの無駄な営みの構図だというわけではないと思います。だって、ツライことなんて無い役者が、自己表現の末の解放の感情は得る。なんか錬金術みたいですごくない?

問題は、抑圧の演技から、抑圧の感情が、本物の感情として生まれるのかどうか。憑依型がどうとかいう話と繋げてもいいんですが、なんかそれだと綺麗な演技論みたいになりそうで癪に障るので、この辺で浮かしたまま終わります。じゃあねー。

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