演出という行為へ、愛憎?
私が演劇作品に関わる時、専ら演出に向ける視点が最も強く、自分の視界の大半を占めます。
自分が演出をしていない時も、鑑賞者として関わっている時もです。
それは、恐らく私が演出という職能の範囲に対して、大きな責任と期待押し付けていて、作品価値の創出の多くを、常に演出行為に求めているからです。
そのため、私が気に入った作品に遭った際は大抵演出への褒め言葉が心の内に残り、当然、私が気に入らなかった作品については演出家への悪口が溢れます。
だから私は好きな俳優、好きな脚本家というより、好きな演出家というのが多いのですが(脚本・演出をしている人についても、「好きな演出家」と言ってしまいます)、私の嫌いな人の多くも、演出家の肩書きを持つ人です。
私が思う限り、マイナスを生まないことが、演出のひとつの重要な職務ではないかと思います。
光る演技は、役者の手柄です。
脳汁溢れる伏線回収は、脚本家の手柄です。
それが要素として存在しつつも、注目されず評価されず、作品の面白さへの貢献にならなかった場合、演出家の責任です。
また、大根役者の見ていられない演技は、演出家の責任です。
面白くないシーンがあれば、脚本家ではなく演出家の責任です。
プラスの功績はそれぞれの手柄ですが、マイナスが生まれた場合は、多くは演出が責任を負うのではないかと思います。
これほどまでに演出家に責任を押し付け、責め立てたくなるのは、演出家が代表者として作品のあり方に向き合い続けるべきだと考えるからです。
マイナスを無くす義務が多い分、その先に、プラスを生み出す機会と権利にも恵まれている立場を、演出と呼びたい。
もしそのような立場に演出家が居られないとしたら、それだけはプロデュース側の失敗かもしれない。
責任から逃れている・機会と権利に恵まれない・演出家ではない代表者が存在する。こういった状況においては、健全な演劇活動が生まれないのではないかと思います。
演出家が代表者として責任を請け負い、演出家を含む全員が権利を最大限に揮って作品に向き合う状態が、私にとっては望ましいように思えます。
そしてきっと、私が面白いと思った作品は、この構造の中で演出家がその職能を全うしたのだと思っています。
だからこそ、今まで面白いと思った全ての作品については、演出家に惜しみない賛美の念を送っています。
そして、それほどに荷が重い演出という行為を担うことが、私にとっては楽しく仕方がないのです。
自分の堂々と提示する演出家の責任を、自分は恐らくまだ十分に全うできていない。だが次こそはできる。そして面白い作品ができるはず。
それを繰り替えして、これまで演出をしてきました。
ここでわざわざ演出家の重苦しい責任を押し付け公開するのは、何も、自分を「出来ている側」と当然のように誤認した上で目に入る「出来ていない側」を批判したいというわけではないのです。というか、出来ていないです。正直に言います。出来ていない。それは多くの演出家が、そうだと思います。
でも出来ていないなりの楽しさ、そして何が「出来ている演出」なのかを考えることで見える成長の契機を、知って、考えてみてほしいような気がしました。だから書いただけです。
(サムネ画像はCanvaの無料素材。手描きじゃないよ笑)
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