セルフレビュー「星たちの光をめぐって」
これに関しては反省とかは特にないのだが、あとからふと思ったことについて投稿する。
2023/3/14
黒の素性
黒は北東アジア系程度にしか素性がわからないが、やはり中国出身なのではないかとふと思った。根拠としてあまり強くない次の4つしかないけれど。①中華料理が得意②実の妹である白の呼び名が「シン」であり、中国人っぽい。③黒は東京のことを「通過点」と言っているので、少なくとも東京出身ではない。④中国なまりの日本語を日本人に対して違和感を持たれることなく喋ることができる。
大体の流れを想像してみると多分こんな感じ。中国で黒と白は一緒に暮らしていたが、黒の少年〜青年期の間に白に契約者の能力が発現し、「組織」がそれに目をつけ連れて行こうとする。そのとき白に黒もついていき、東京でない日本のどこか(篠田千晶のいたところ)でいくらかの期間を任務をこなしながら過ごし(この時流暢な日本語を習得)、南米へ。その後、白は不可侵領域の中に取り込まれ、わけもわからず黒だけが東京に来る。こんなことを考えた人はいるのだろうか……?
2023/4/11
反転したコスモポリタニズム、異邦人たち、偶然のマレビト
黒が中国人だと仮定するなら、岡村天斎監督がズヴィズダーで大胆に忍ばせていたコスモポリタニズムが反転した形で、DTBのうちに最初から仕込まれていたことになるとふと思った。黒のチームに日本人は黄しかいないことになり、霧原美咲との交流はただ黒の流れ着いた東京での偶然の出会いと別れとして描かれていることになる。その意味でDTBが黒の登場と霧原の語りで始まるのは、日本人である彼女が正体不明の他者である黒を迎え入れる形での導入になっている。
また、黒が中国人であるならば、DTBはその根幹からして異邦人たちの紡いだ物語だということになる。日本に来ている未知の異郷の人たちを取り上げることは岡村天斎監督が構想を持った当初から意識されていたことであり、そのテーマが分かりづらい形で物語の中枢に据えられていてもおかしくはない。
あるいは、日本人である黄にとっても、作中の世界は異邦と化しているのではないだろうか。岸田志保子との出会いと別れを通して、黄にとっての世界は変質してしまっていただろう。事実、黄の「世界や人とのかかわり方」、その性格は二度変化しているだろう。岸田志保子に出会う前の一般人のありかたから、彼女との別れののち契約者以上に契約者らしい無慈悲な性格に陥り、黒のチームとの交流で人間らしさを取り戻していた。ある人にとって世界が変容してしまうような交流というものはある。この場合、それはひいては「ゲート」に由来するものだ。
そして、DTBにおいては「ゲート」の存在がすべての登場人物にとっての世界を異邦に変化させたのであり、皆が皆、普通の生活をつづけながらもその世界に異邦人としてあらしめられている。岸田志保子の言う「契約者の記憶」はまた、契約者たちの対峙する世界に変容があったことを示してもいるだろう。その幾多もの異邦人の中で、契約者と一般人の両方を救う場所にいてその道を取り、世界を変化させることになった黒は偶然のマレビトとでも呼べないだろうか。
「ゲート」は、天国であり、地獄であり、そのどちらでもあり、そのどちらでもない。それは時空間の定まらない選択の歪む世界であり、場所なき場所、一つの「関係の外部」である――「関係の外部」は様々な現れ方があり得る、スピノザの神、文学のふるさと、悟り、慈悲、研ぎ澄まされた「今ここ」、他者……。
DTBで描かれている世界は反転したコスモポリタニズム、万人による闘争に満ちていて、その中心は「ゲート」という「関係の外部」で占められている。これらはズヴィズダーでたどり着いた境地を準備していたものであり、その全世界と未来への愛にはそこからでしかたどり着けなかったのかもしれない。
ただ、もしかすればコスモポリタニズムは世界そのものを住処とする市民の思想であるから、それが「関係の外部」によって慣れ親しんだ世界が「異邦」として見え始めることと矛盾すると思うかもしれない。しかし、そうではないだろう。「関係の外部」は既存の「関係の体系」、その張り巡らされた境界、「内部」と「外部」、ひいては「異邦/故郷」の対立を変容させることで「普遍」に近づく運動を起こすものであろうから。
2023/4/14
未来という「関係の外部」、反転する闘争、コスモポリタニズムと悟り
DTBにおいて「ゲート」が「関係の外部」であるように、ズヴィズダーにも「関係の外部」が存在する。それは、忠誠の証とともに自らの真の表情を隠す明日汰という存在である。星宮ケイトに振り回されてばかりだからそうは見えないかもしれないが、ケイトが征服することができない明日汰、それの象徴する遠く遥かな未来は誰にも決めることができない、「関係の外部」なのである。
また、DTBに反転したコスモポリタニズムが仕込まれていると述べたが、これは逆に言えばズヴィズダーのテーマとして、反転した万人の闘争が描かれていると言える。ケイトの闘いは死者を出すことなく地球上の人類一人一人に頭を下げて「説得」することであり(ガラクーチカでぶん殴るかなり不条理な描写があるものの)、「説得」こそが彼女の世界征服である。これはほとんど暴力による闘争が反転した形になっていると言っていいだろう。
そして、このように「万人による闘争」と「コスモポリタニズム」を対比的に考えたとき、その対立が仏教の「苦の世界」とその上での「悟り」「平穏」と対応関係を持ち始めるとは考えられないだろうか。実際にカントが「永遠平和」というものを考えたとき、人間の暴力性が現実的に念頭に置かれていたはずだ。
あるいは、「コスモポリタニズム」が「関係の外部」と関連があることを、世俗の価値体系を反転させつづけ、家を持たないことで世界を住処としたディオゲネスの振る舞いが示唆しないだろうか。
「コスモポリタニズム」の実現は仏教の言葉で言えば――ガンディーの言葉なら暴力の可能性に満ちた世界における「非暴力」となるだろう――「悟り」の高次元での実現であるのかもしれない。
2023/4/16
DTB、宗教、読解の始まり
「ドール」に暴力的で強制的な悟りを見る私であるが、これは何も私だけのこじつけとは言い切れないところがあることを指摘して補強しておく。
岡村天斎監督から何らかの示唆や、依頼があったのかまでは分からないが、二期の音楽を担当している石井妥師は二期のファンブックでDTBの音楽に「解脱」、「慈悲」、「自己の克服」など仏教を彷彿とさせるモチーフを入れ込んでいると語っている。
彼は黒を「救世主として戦う男」と表現しているが、それはおそらくは岡村天斎監督の意図するところではないと思う。黒にそんな能力はない。偶然その場に立ってしまって、それを選んだだけのただの人間だと思う。
その他、DTBの第二の地球には旧約聖書から持ち込んだ方舟のモチーフも見られる。ズヴィズダー以前の時点の岡村天斎監督に、契約者の存する争いの世界、そんな世界は生まれ変わりなどしない限りどうしようもないというような諦めがあったことを示唆しないかと思う。
何にせよDTBは陰鬱なスパイアクションのなりをした恋愛ものであるが、それを観るもののうちにそういった宗教を想起させる物語でもあるということは言えるのではないだろうか。
DTBとズヴィズダーにはポリコレの面からの批判に耐えることのできない点がいろいろあるのだろうとは思う。ポリコレに通じているわけでもないから、どこまでそんな批判がありうるのかはわからない。私は商業アニメだから割り切って見ているが、けれどもそもそも色々なものがカモフラージュとして配置されて真意が意図的に隠されている感がある。
だから、私はDTBとズヴィズダーはその最も基本的な意味の読解が誰にもされていない手つかずの状態で10年間程度見過ごされてきたのだと思っている。基本的な意味の読解がなされたあと、初めて社会的な条件からの読解を行うことができるのではないか、その読解のスタート地点にようやく立ったのだと私は思っている。今はそういった観点からの読解もする気はあまりないけれど。
2023/6/3
岡村天斎監督作品を交換様式論で読み解く可能性
早速前言を撤回するようなことをしてしまっている。これだから自分は信用ならねえ。DTBとズヴィズダーは柄谷行人の交換様式論で読み解くことが出来る可能性があることに気づいた。アニメ作品だからどうとか関係なく、自分の知っているものにパターンがあれば追求してしまう習性を止めれていない。
それはともかく、DTBやズヴィズダーは「帰らない」物語である。その点で攻殻機動隊に少し似ている。DTBは帰る場所を失った者たちが集まっているし、ズヴィズダーは人類の終わりまでただひたすら未来に進むだけ(本編では開始地点のみが描かれているが)。
DTBは交換様式A(互酬性)が破綻し、B(支配-被支配)とC(商品交換)が徹底された世界のメタファーで描かれていて(契約者というモチーフからしてそうだろう)、BやCからの逃避行を描きつつ、Aの互酬的な共同体に回帰しない。DTBはある意味で、BとCの外部へ至ろうとする道が多数描かれている作品でもある。帰る場所のない黒のむかった「関係の外部」、スオウの向かった契約者のいない世界つまり作中のB、Cの暴力が緩和された普通の第二の世界、霧原の立ち上げたBとCの暴力をもたらさないであろう新しい「組織」、契約者(作中のBとCを体現するもの)の先にあるドール(強制的な悟りの状態)の進化の先。しかし、どれも「争い」を止めるものとはみなされない。
ズヴィズダーはAないしBの組織と見れるが、しかし、その征服の仕方は「美」と「性愛」の名において誰一人取り残さずすべての人類を「説得」するという手法であり、AとBの暴力は真っ向から否定している。ズヴィズダーは本質的に閉じた共同体や交換様式Bとは異なる。「国家は他の国家に対して国家である」のに対し、ズヴィズダーはすべての人民の「説得」による征服、「世界征服」というその目的の本性上、「現在の空間」上に「敵」、「外部」を持つことを完全に否定しているからだ。ズヴィズダーが明確に意識している「外部」は「未来」のみであろう。
ただし、Cについてはあまり描かれていないかもしれない。人類最後の人間がかなり荒廃した世界を生きているところを見ると、その点はあきらめた感があるかもしれない。
また、人類の最後に至るまでの過程が全く描かれていないため、いかにそうなったのかを読み解く手がかりはあまり与えられていない。あるいは、ズヴィズダーは美や争い、知、正義といった抽象概念の紡ぐ神話でもあるから、何かとても古典的なものの別次元での回帰と見ることのできる可能性はあるかもしれない。
少なくとも以上のように考えれば、描写されてはいなくとも、ズヴィズダーとDTBにはDを考えるベースとなりそうなもの、普遍宗教への手がかりがあるような気もする。このようなことが意図されて描かれたものか、そうでないかは問題ではない。パターンがあればそれを読むことは可能だ。実際このような観点でみれば、この岡村天斎監督の2作品はある意味でDを求めた彷徨の記録に他ならないだろう。
いずれにせよ、柄谷行人にせよ、岡村天斎にせよ、いまだ交換様式ABCの先は語られていない。それは人間の意志で人為的にもたらすことができるものでないという感覚が共有されているようにも思う。時間があればもう一度この作品について考えてみたい。
2023/6/11
黒の交換様式論、価値体系とDと存在の真理、ズヴィズダーの2つの態度
このように見たとき、黒という「普通の人間」の「特異性」がある種の人々の現実に近い何かとして、そして、それに理想を重ね合わせた夢の姿として現れるだろう。
黒は「契約者」の能力だけを手に入れさせられた「普通の人間」である。そこには交換様式BとCの力に受動的に巻き込まれ、その力を行使させられながら、交換様式A(契約者となってしまった妹の白)を失いそれを求めてさまよう人間、現実の世界に一定数存在するであろう、孤独に現代を生きる人間の姿が描かれているだろう。
黒の本音が現れない理由、また彼が激しい混乱の中にいるであろうことは想像に難くない。妹の喪失をもたらした憎むべき契約者の能力を訳も分からず手に入れ、他ならぬ自分自身がそれを行使しながら、誰も信じられない状況で生きるために殺したくもない他者を殺さなければならない。黒の憎しみは自己言及のパラドックスを起こしているだろう。
その黒が妹(A)への執着を手放し、結果的に満ち足りた月の光(BとCの合理性の先にあるもの)を象徴する銀を選ぶとともに、BとCの力を持つ人々(契約者)と普通の人々(BCの強力な力を持たない一般人)の両方を救うマレビトとなり、その後「関係の外部」に行方をくらますのはやはり、現実からDに至る願望の現れ、一つの夢の姿であるかもしれない。
ただ、黒が特異な道を辿ること自体は、ある意味でそこまで不思議なことではない。BとCに巻き込まれその暴力を厭い、Aを失えば残る道はそれ以外の他にはあり得ないからだ。
そして、それ以外の道を通るときに、黒がBとCの殲滅(契約者の消失)に向かわなかったことにも合理的な考えがありうる。BとCの暴力の徹底した排除を目論むとき、その一者は必ずより強力なAないしB、その結合体へと舞い戻りさらなる暴力を生むのだから。黒はそれよりもただたんに人を殺めたくなかっただけだろうが。Dの発現が他の交換様式の消失を伴うものではなく、それと同時にあり得るものではないかということについて、そのあり方の形の可能性について考えさせられる。
さらにこのように黒の状況を考えたとき、交換様式Dがある特定のタイプの宗教、普遍宗教の形を取ることが多いことが理解できる。交換様式ABCのすべての喪失ないし忌避は、それに伴う「価値体系」を失うということに等しい。交換は「価値体系」を元に行われ、また交換が「価値体系」を生み出すからだ。
というのも、物に値段がつくのはそれが貨幣によって交換されるからであり、日々それは需給により変動し、価値に則って交換は行われ、売れなくなれば値段はつかなくなる。ある種の国家の役職や、家父長制には権威や憧憬が伴うが、それはそのシステムの外部から見れば意味をなさず、交換(価値や権威という観念と現実の連動)が成立しない。
そして、それは観念(価値体系)と現実が連動する=交換がなされる限り、価値体系に基づく交換は維持され、観念と現実の連動がなされなくなるとき、価値体系は形骸化し、消失していく。だから、その循環から抜け出した者は、必然的に価値体系をもまた失う。これは言い換えれば、岩井克人のいう「循環論法」が交換様式論からみた交換と「価値体系」の関係に適用可能だということである。
いい加減岩井克人に言及し過ぎているので、ここで注記しておきたい。私は人がなにかを論じたり、行動をおこすとき、その言葉やふるまいが文字通り以上に何かを語っていて、本質的に何が論じられ行われているのかを、論じ振舞っている本人も含めて誰も知らないということが往々にしてあるものだと思っている。
というのも、指し示すものと指し示されるものの間には幾重もの階層が存し、ある関係のゆく果てを私たちは知らないから、それはごくごく普通のことである。あるいは、知識とは関係のネットワークであるのだから、関係の行く末を途中までしか知らないということは、そこで知識が果てるということにほかならない。いかなるレベルであれ、関係が続く限り未知もまた続いていく。
その行く末の探究の一旦の停止を私たちは「理解」と呼ぶのではないかと思う。そしてあるいは、このような価値体系を通じた交換の成立を成し遂げること、「霊的な力」が成立すること、価値と価値の一致がおこるのも、指し示すものと指し示されるものが一致するという奇跡である。
さらに、「価値体系」もまた数多の階層を有していると言わなければならない。つまり、交換の意志を判断する主体の数だけ大なり小なり「価値体系」は存在、あるいは生成される。子どもには子どもの、親には親の、家族には家族の、共同体には共同体の……価値体系がそれぞれ交換の循環の中で存在するだろう。
あるいは、このようにDTBの読解から交換様式論そのものの吟味に至ることについて、それがどのような原則に則っているか、私の持つ一つの規範的命題について触れたい。それは「問うものは問われるものでなければならない」ということだ。個物の読解によって、それよりクラスの高い理論そのもの吟味や、その可能性を拡張することが、一つの優れた読解であり得ると思う。
それはともかく「価値体系」とはある一者が物事の善悪を定める、その問いの基準である。だから、交換の循環から弾き出され、それを捨てたとき、その一者は現状に対し他に取りうる「よい/わるい」の可能性を失う。つまり、ある特定のタイプの宗教の真理、「存在の真理」に近づく。ニーチェならば、他でもないその状態からこそ自らの価値を確立せよ、と言うだろう。それが「自由である」ということ、他の価値によって動かされない、「自己原因である」ということだから。交換様式論から「存在の真理」の生成の一因を読み取れるように、私たちはそれにより生まれる思想体系をある程度分類することができるだろう。
これに関連して、ズヴィズダーは「存在の真理」を得ながらも生命(性愛と美)の持続という願望(星、目的)を礼賛する方向性を捨てようとしない、2つの立場を同時に持とうとしているところがあると思う。ヴィニエイラ(性愛と美の女神)の銀髪は銀の月、満たされた心(存在の真理)の名残であると私は考えているから。その立場に私は好意的というよりは、ABCを失った者がそれでもなお生を求めたなら、ほとんどそれ以外に進むべき道がない気もする。例えば、ガンディーほどに性愛を禁じれば、単純に人間は絶滅する。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?