『BEEF/ビーフ』響きと怒りとコメディと
「BEEF」という言葉の意味を検索すると大きく分けてだいたい3つの意味が出てくる。
2023年4月にNetflixで配信を開始した『BEEF/ビーフ ~逆上~』は、あおり運転を端緒に韓国系アメリカ人のダニーと、中国系アメリカ人のエイミー、二人の男女が衝突し、摩擦に摩擦を重ねながら、仁義なき戦いを繰り広げ、周りにいる様々な人を巻き込み、彼らの人生と、アメリカ社会で移民として生きるということ、さらに人間としての在り方を徹底的に描いた(たぶん)コメディドラマである。
とても面白く出来がいい作品なので、止め時が分からず全10話を一気に観終わったのだけど、日本語のタイトルは本当にこれでいいのかな、と少々疑問に感じた。
”逆上”という言葉の意味は以下の通り。
必ずしも間違いではないのだが、私がドラマを観ていて感じたのは、抑え込んできたマグマのような感情が、何らかのはけ口を見つけたことで、ある意味とても「理性的」な状態で相手を攻撃をしているな、ということだった。つまり、ここに「心身が平常の状態でなくなること」という意味は含まれない。おそらく、主役の二人は物語が始まるまで自分自身の中にある色んな感情を抑え込んで生活していて、その抑圧された感情が、ドラマ冒頭のあおり運転によって蓋を開けたのだ。だから彼らの怒っている姿というのは「逆上」というよりも、自然なままで生きていくことが出来ないことに対する「苛立ち」を表しているのだと思う。そうしてみるとやはりこのドラマのタイトルは「BEEF」というシンプルな言葉こそふさわしい。
話が少々先走ってしまった。まず物語と登場人物について簡単に説明しよう。
観葉植物の事業で成功を果たし、主夫であるジョージ、愛する娘ジューンと一緒に何不自由のない暮らしをしている”かのように見える”中国系アメリカ人のエイミー。彼女は自身の高級植物店をジョーダンという超富裕層の大物に買い取ってもらえるかもしれないチャンスが舞い込み、その商談を成立させるため神経をすり減らしながら仕事をしていた。また、夫のジョージは母親が日系アメリカ人でデザイナー。彼もアーティストとして活動しておりエイミーからすれば作品はいまいちなのだが、面と向かって酷評はできずにいる。
一方、韓国からの移民二世として修理業(兼何でも屋)をしているダニーは、弟のポールと二人暮らしをしている。常に金に困っている状態で、ポールは言うことを聞いてくれない。彼は長男として「家族の期待」という重圧を背負っており、かといって恋愛も上手くいかず、出所したばかりのいとこアイザックを頼るくらいしか道は残されていない。
物語はそんな二人の男女が「あおり運転」というきっかけから出会い、BEEFの感情を発露させるところから始まる。
「移民」、そして「アジア二世」。
日本を離れて暮らしたことが無い私には、ここで描かれている「アメリカ社会でアジア系移民として生きていく」ということの苦しみや息苦しさ、あるいは歓びや解放感というものを完全には理解できない。だが同時に、このドラマは、人間が社会の中で生きていくことでどうしようもなく抱えていくこととなる「抑圧された感情」と、「理解し、魂が触れ合うことの喜び」を描いている。配信されてから何十カ国もの国々でランキングトップ10入りした理由には、そんな多くの人が共感するテーマが盛り込まれていることが関係しているのだろう。
いや、そもそも「アジア系アメリカ人」だとか、「移民二世」という言葉はとても大雑把で乱暴な気がする。人はそれぞれが違う人間で、いろんな事情、いろんな感情を抱えながら生きている。それを一括りに枠の中にはめることはとても危険なことだ。このドラマでそのことを最も強く感じさせる登場人物はエイミーだろう。どうやらアメリカにおける「アジア系」にはある「模範」が根強くあるようで、”勤勉”、”我慢強い”、”成功者”といったイメージが常に付きまとっている。エイミーはそういった、いわば典型的な「無害でうらやましがられるアジア人」となるべく必死に生きている。だがそれこそが彼女の辛さであり、抑圧された怒りの原因なのだ。対照的な立ち位置にいるように見えるダニーにしても、その「アジア人像」に苦しめられているという点で同様だ。こちらは低所得労働者として”アメリカンドリーム”を夢見る「移民二世」という立ち位置におり、現実との乖離に空虚さを感じている。
私がこの作品を観ていて感じたのはアメリカ発の作品でありながら「アジア人」という存在を、枠にあてはめない新しさだった。それは映画「エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス」を観たときに感じた、”人間”としてのアジア人を徹底的に描き出す新しさに近い。
さらに、世代間のトラウマ、男女間の違い、社会階層の差、個々のモラル、メンタルヘルスといった「差」を果敢に描き、そこに巣くう問題意識をあぶりだしてゆく。「あなた」と「わたし」は違うということ。典型的な人間など想像の中にしかおらず、違いがある社会の中で様々な思いを抱えながら人々が生活しているということ。これは、そのことを伝えるための群像劇なのだ。
エイミーとダニーは第1話でぶつかり合うわけだが、実はその後の展開において同じ場所、もっと言えば同じ画面の中にいるシーンは最終話を除いて意外と少ない。どちらかといえば彼らの周囲にいる人々、例えばダニーの弟ポールであったり、エイミーの夫ジョージであったりの動向を追い、それらが複雑に絡み合い、やがて人間関係や人生がぐちゃぐちゃに崩壊していく様を描く。この「どこまでいっちゃうの」という感覚は本品の魅力のひとつだろう。かつて『ブレイキング・バッド』で味わった、あのどんどん堕ちていくことへの興奮。本作もそうした「転落することの興奮」に貫かれた作品だった。
やがて周囲を巻き込んだ彼ら二人のぶつかり合いは、第9話において視聴者の予想を軽く超えるほど凄惨な事態にまで行きついてしまう。商談相手のジョーダンは自宅を襲撃された上にひどい死に方をするし(ほんとにひどい死に方だった……)、ダニーの仲間たちも軒並み警察に逮捕される。事態を収拾しようとしても、一度付いた火はそう簡単に消え去ることはない。
そして圧巻なのは最終話だ。予想外のことが立て続けに起きた末に、エイミーとダニーはふたり山で遭難することとなるのだが、そこで誤って口にした実の幻覚作用でハイになった結果、自己と他者の境界を無くすほど二人の感情は溶け合ってゆく。
人生を振り返り、自分がどんな人間なのかを見つめ、幼少のころに起きた出来事を語り合う。二人の意識は混濁し、どちらの言葉がどちらのものかさえわからなくなることで、自分の不安や弱さを正直に認められるようになり、その時ようやく互いに相手の軽蔑していた部分が自分自身の抑圧していた怒りの根本なのだと理解し始める。美しいシーンだ。ドラマで起きたあらゆる出来事は最終話のこの場面のためにあったのだと感じるほどに脚本の素晴らしさが際立っていた。
生きることは難しい。
相手と和解し、相互理解するということは、自分自身を理解することと同義なのだ。お互いの欠点を受け入れ、自身の弱さをさらけ出し、心の深淵にたどり着くあのシーンはそのことを物語っている。
脚本、構成、配役と非常に上質で観て良かった。今年のテレビシリーズは『ラストオブアス』を観れたから満足していたけど(ことあるごとにラストオブアスって言ってますね私)、こっちもすげえぞお。怒りから始まり、魂が触れ合う瞬間を描いた物語。とても美しかったです。
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