『世界が引き裂かれる時』のカメラワークについて
ある意味でこの映画は雄大な「自然」に焦点を当てた映画であり、視点としてはその大きな営みを映し出している。そうして見たとき画面の端っこや、ピントが外れた状態で映される「人」の姿はとてもとてもちっぽけなもので、いやちっぽけどころかただの”背景の一種”のように希薄な存在となる。つまりはこの映画において多用される長回しやロングショットの効果とは、戦争という所業を俯瞰して見せることでその愚かさや空虚さをより浮き彫りにさせるという事ではないだろうか。
2014年に起きた《マレーシア航空17便撃墜事件》を背景としたこの映画は、ロシアとの国境近くにあるウクライナで暮らすある夫婦が、突如平穏な日常を壊され、親ロシア派と反ロシア派の対立に否応なく巻き込まれていくという筋立てとなっている。
映画冒頭、真っ暗な画面の中聞こえてくるのは二人の会話のみ。夫婦は「壁」について話をしているのだ。妻であるイルカは言う、
「私の夢は、すべてが終わったら穴に大きな窓をはめること」だと。
画面に人物が映し出されたかと思うと、そこにはイルカと夫であるトリクの姿がある。イルカは身重の体で、出産が間近に迫りつつある中、派閥同士の対立は深まり、その戦火は夫婦の元にも迫りつつあった。
突如、爆撃が起こる。
轟音とともに画面はゆれ、寝室を映していたカメラはゆっくりと隣室に移動していく。そこにあるのは「穴」だ。爆撃により家に大きく穿たれた「穴」。カメラは夫婦に焦点を合わせない。二人が無事であることは話し声や、ごそごそと動き回る音、画面の端に映る影からわかるが、ここでカメラが捉えているのは「穴」の外に広がる雄大な景色だ。悲惨な光景を意図的に避けているのではない。これは、そうすることで私たち観客に起きていることを「想起」させているのだ。
映画はカットと編集の芸術だ。どのように場面と場面を繋ぎ、効果音を合わせ、音楽をかけ、倍速にしてみたり、スローモーションにしてみたり、あらゆる手法を使い「物語」を作り出すマジックだ。しかしこの映画は何か重大な事件が起きていても、必ずしもそれだけを映さない。動物の目を通してでもいるかのようにゆっくりと、ただじっくりと全体を俯瞰するのみだ。私はその視点が恐ろしい。そうすることで、親ロシアだ反ロシアだとのたまっている人たちだけでなく、そこから距離を置こうと必死にあがく夫婦の営みでさえ「俯瞰」され、ドラマ性など皆無の厳しい現実が、ちっぽけな存在である彼らのことを背景の中に埋没させているように見えてしまうから。
2014年7月、アムステルダム発クアラルンプール行きの17便が、ウクライナ東部を飛行中に、親ロシア派が支配する地域から発射されたミサイルによって撃墜され、乗客乗員298人が犠牲となった《マレーシア航空17便撃墜事件》。この事件は、現在ほとんど語られることがない。しかし、2022年2月に始まったロシアとウクライナの戦争はここから始まったのだと監督は語る。この事件は、国内の紛争による惨事などではなく、国による侵略行為なのだと。ウクライナ出身のマリナ・エル・ゴルバチ監督がインタビューで語っているように、この映画が先ず伝えたいのはそのことであり、それこそが製作の動機ともなっている。
映画のラストにおいて起こる「死」と、新たな生命の「誕生」。カメラはその光景をドラマチックにもセンチメンタルにもならず、ただあるがままに映す。嘆きと、祈り。タイトル通り世界は引き裂かれ、いまなおその裂け目が閉じることはない。イルカが求めた「窓」は未だにはめられることは無く、嘆きもまた同様に止むことがない。物語が終焉を迎えた後、画面に映される文字、
「女性たちに捧ぐ」とは祈りなのだろう。
日常の営みの尊さと、創造することの偉大さを淡々と伝え、カメラはその役割を終える。