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【読書感想】健康で異常な希望のある生活『異常【アノマリー】』エルヴェ・ル・テリエ

※ネタバレありの感想です。

「パンドラの箱」に最後に残るのは「希望」であり、それこそが問題なのだ。

 希望って言葉は前向きな響きを持っているが、希望こそが人間の不幸を長引かせるのかもしれない。だって私たちは自分の間違いを証明しうる、あらゆるものから目を背けてしまうから。そうしてだらだらと変わらない日常を繰り返しているのだから。常に、既に、日常は異常なものに変化しているというのに。

 例えばある日、3ヶ月前の自分が目の前に現れるなんて異常事態に遭遇したらどうだろう。世界にもう1人自分がいるとしたら、私たちは何を話し、何を選択すればいいのだろう? 選択の結果、何が変わるというのだろう?


【あらすじと解説】

 本書『異常』の第1部は殺し屋を主役とした話から始まる。続いて小説家、シングルマザー、癌患者、歌手と主役を次々に変えながら短い話が続いていく。さながら群像劇の様相を呈すが、登場人物たちが同様の飛行機に乗っていた事実が判明する終盤で、まさかの展開を迎える。
 3月に到着したエールフランス006便が、6月に全く同じ搭乗者を乗せて唐突に再出現したのだ。

 第2部からは、この事態に対処するための対策チームが設置される。物語が真の顔を見せるのはここからで、唐突にジャンルがSFに変わる。
 対策本部はこの現象を「シミュレーション仮説」と捉え、調査を進めていく。「シミュレーション仮説」とは、私たちがいるこの世界がバーチャルなものだとする仮説であり、この異常現象はその「バグ」が原因だというのだ。

 作者はこの異常事態から起こり得る様々な事象をユーモアを交えながら緻密に描いている。ある種の思考実験として。作家だけでなく数学者、言語学者、劇作家、ジャーナリスト、編集者と多岐に渡って活動するテリエの見識はここでも存分に発揮されており、知識の配合から生み出される展開と、ドタバタSF感がたまらないパートだ。

 第3部は、自分がもう1人存在している重複者(ダブル)たちが、本人同士で対面するパート。登場人物たちの行動や心情を丁寧に描写しており、最も文学色の濃いパートとなっている。約3ヶ月という時間のズレは、恋人との別れや、仕事での成功、知識の差等々あらゆる違いを生み出し、辿る道も様々だ。読んでいて「あなたならどんな選択をするか?」と問いかけられているようだった。


【テーマやメタ的な側面】

 本書は、作中に「異常」というタイトルの小説を出すことで、メタ小説としての側面も持たせている。そうすることで、この物語が単なる作り話などではなく、ある種のメタファーによって現実を描いてことがわかる。第3部における、作者の分身のような存在、ヴィクトル・ミゼルの会見は示唆的だ。彼は「パンドラの箱」の話を語り、最後に残るのは「希望」であり、それこそが始末の悪いものだと言う。

「いま、世界全体が新たな真実に直面し、わたしたちの錯覚のすべてが見直しを迫られています」

 でも実際に世界を見渡しても、私たちはそんなに簡単に変わらない。変わることを拒む。希望というやっかいなものがあり続ける限り。
 重複者(ダブル)となり、息子を取り合ったリュシー・ボガードが辿り着いた場所はどこだっただろう。それは日常だ。ブレイクは? アンドレは? ジョアンナは? みんな辿る道は様々でも、なんらかの折り合いをつけて「変わらない日常」に帰結する。それがどんなに異常なことであっても。
 この物語の最終章は、変わらない日常への帰還であり、順応だ。

 著者のエルヴェ・ル・テリエが用意したのは、ある意味でひどく普遍的な、それゆえに真実を突いた答えだ。「何も変わらない」。自分自身を救うのは自分だけだと、みんな薄々気付きながら「希望」に縋るという答え。

「パンドラの箱」に最後に残るのは「希望」であり、それこそが問題なのだ。

 これはそんな物語だ。
 あらゆる変化が加速度的に進む現在、その都度私たちは行動も価値観も見直しが必要になっている。いや、そんな大きな事象の話ではなくても、日常的に人は変わっていくことを求められている。

 小説内で、この重複者(ダブル)という事象に対する大きな解決や、原因が描かれることはない。作中で語られるように、私たち人間はそんなに合理的にできてはいない。
 そもそも、そんな問いは無意味だ。なぜなら変化は常に、既に起こっているから。ラストシーンで何の予兆もなくミサイルが打ち込まれるように。予兆を感じた時、それは既に崩れているように。崩れゆく文字列をただ見つめるしかできないのと同じくらい、世界は唐突に変わっていくのだから。

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