【連載小説 第5話】初対面の小学生女児から「お父さんと結婚して」と言われた35歳、無職。
第5話 汚部屋に気づいた女性
彼らと別れたあと、まつりは久しぶりに部屋を掃除した。
まずは段ボールをまとめて縛り、玄関に立てかけた。そしてテーブルの上の紙類を要不要にわけ、不要なものはちぎって捨て、必要なものはクリアファイルに収納した。物がなくなった白いテーブルをよくみると、うっすら黒ずんでいる。水拭きしてもそれは取れず、食器用洗剤を含ませたスポンジでこすったらとれた。
幸いに良く晴れた洗濯日和。ベッドの前に敷いていた冬用のグレーのシャギーラグを一旦、ベランダに出して手で叩いた。もわっと埃が舞った。
「えー、汚ぁ。これに座ってたの? やばいな、ここに子供座らせてたの? 昨日の自分を殴りたい」
けば立った浴用タオルを半分に切り、裸になった床を一枚で水拭き、もう一枚でからぶきした。ラグは後程、コインランドリーに持っていくことにし、床に座ってベッドの上の洗濯物の山を片付けた。
洗濯物が消えたあと、掛布団はベランダに干し、シーツとまくらカバーは外し洗濯機にかけた。
あまり気にしていなかったが、シンクをよく見ると、茶色や黒い汚れが所々へばりついている。
「いやあ、病気になるわこれ……」
先ほどのスポンジでぎゅっ、ぎゅっ、と力強くシンクを洗った。水をかけ洗剤の泡を落とすと、光沢のある銀色が蘇り、長い間台所を放っておいた絶望に襲われた。スポンジもよれよれで、使っていることが不思議なくらいだった。
自宅がこの状態で、昨夜も今朝も、よく人の食事の世話をしたなと、まつりは恥ずかしくなってきた。
ガスコンロも焦げ付いたままで野菜くずのようなものが落ちているし、風呂も赤みや黄身のある水垢が目立つ。トイレも便座裏が…言いようがなかった。
おせっかいも正義感も、自分を整えてから発揮すべきだ。まつりは今日、部屋中ピカピカにすると決意した。
しかしワンルームとはいえ、散らかり放題の家をきれいにするのは容易ではない。一日掛けて表面的なものは片付いたものの、まだクローゼットや紙類などをしまっている棚の中はごっちゃりしているし、風呂場のカビ取り剤も買ってこなければならない。
「あー、こんな汚い家に住んでる人間が普通の営みができるわけ……ない……」
という訳で、転職活動の前に、家をきれいにすることを目標にした。
◇◇◇◇◇
学童の日、駿は定時10分前には仕事を切り上げ、走って会社を後にする。多少仕事は残ってしまったものの、今日中に終わらせなくてもいい内容だ。いつも通り、10分前には帰る準備を始めた。
駿はおやつ時あたりからドキドキしていた。今日は親子丼が食べられるからだろう、そう駿は理解していた。
定時きっかりにオフィスを出てビルの自動扉を出た駿は、走って駅に向かった。
この駅から家のある最寄りまでは30分ほどだ。お決まりの電車に乗れた駿は、スマホを取りだし、娘関連の連絡等がないか確認した。特に気にするようなものはなく、リュックにしまおうとしたが、ふと姉の姿が頭に浮かんだ。写真フォルダをタップし、遡る。真冬のいろいろな表情が現れる。最後までたどり着いたところで、パソコンに移してスマホから消したことを思い出した。
あまり思い出さないようにしていたのに、今日は珍しいな。
そう心のなかでつぶやきつつ、スマホをしまった。
駿は最寄り駅に降り立ち、あの公園を目指した。もう1分も歩けば公園というところで、丸まった何かを抱えているまつりに出会った。
「佐藤さん?」
「宇那木さん。お疲れ様です」
「それ、布団か何かですか?」
「ラグです。コインランドリーで洗ってきたんですよ」
「へえ、しっかりしてますね。きれい好きなんですね」
まつりは何も答えずとりあえずにこっとした。本当は埃や飲食物と思われる染み、髪の毛だらけで何か月も放置し、しっかりどころか怠惰の極みだった。たまたま、「しっかり」して「きれい好き」な場面を見られてしまい、きまりが悪かった。
「これからお迎えですよね、じゃあのち」
「一緒に行きませんか、学童?」
何の作為もなく、ぽろっと口から出ていた。駿は発言してから自分の言動に驚き、心拍数があがった。血圧は200を突破していそうだった。
一度出した言葉を否定するか、それともまつりの発言を待つか。考えれば考えるほど、選択肢は一つになる。
「えっと」
「い、いやあの、真冬が喜ぶのかと思っただけです! ではあとで!!」
上がった心拍数のまま歩くと息ができなくなりそうだった駿は、走って学童へ向かった。
まつりはラグを抱えたまま、走り去る駿の背中が見えなくなるまで立っていた。
もし二人でお迎えに行ったら、学童のスタッフにどう見られただろうか。
「恋人…?」
駿は厳しい口調でも真冬に対するまなざしは暖かい。優しい父親だと思われる。年齢はまつりとそう変わらないだろう。
真冬抜き、二人だけで出会っていたら話は変わっていたのだろうか。
などと想像したが、頑固で融通の利かない一言余計な女はご免だ、公私共にそう言われてきた自分に興味をもつはずがないと、思考を修正した。
「はー、バカバカ。何期待してんだか。 私はひとりで生きていくしかないんだよ」
自分を叱るように言いながら、まつりはマンションへ戻った。
真冬の通う学童は、小学校の敷地内の隅にある。
走ってきた駿は、学校の門をくぐったところで、いったんとまり、息を整えながら歩き始めた。久しぶりの疾走と心拍数のせいで、マラソン大会のゴール後のように疲れ果てていた。
学童に近づくと数組の親子とすれ違った。軽く会釈をする。
「すいません、宇那木」
と、駿が学童に足を踏み入れるや、その脇を真冬が駆け抜けていった。
「ま、真冬! す、すいません、ありがとうございました!」言いながら、真冬を追いかけた。せっかく整えた息が、また乱れた。
真冬は駿が思ったより、何倍も足が早かった。彼女は小学校5年生だけれど、駿の中では5歳程のイメージで止まっていて、今の娘の能力を無意識にその程度で捉えていた。
すでにロスした体力、運動は体育の授業だけだった駿の運動不足と体力不足も加算され、意外にも追いつくまでに距離をかけた。
公園が視界に入ったところで、駿は真冬に追いつき、そのまま一緒に公園に走って入った。
「おかーさん!」
すでにまつりは、薄緑色のコンパクトなショルダーバックを斜め掛けして立っていた。
「だから、お母さんじゃ」
真冬はがしっとまつりの手を取り、スーパーへ向かって走り続けた。
久しぶりの駆け足に疲れ果てた駿は、公園のベンチに座った。
「……はっや……」
「ま、真冬ちゃん、ちょっと、止まって!」
言われて真冬は止まった。まつりはふう、と息を整える。
「何で走るの」
「早くスーパー行きたいんだもん」
「ええ、そんな楽しみなの?」
「お父さんともたまに行くけど、何食べたいとか言えないし。今日は私が食べたいもの買ってもらえるからすごく楽しみ」
「……ふーん、お父さんに遠慮してるんだ」
真冬は落ちているアスファルトのかけらを蹴りながら静かな声で「仕事忙しいし、必要ないわがままは抑えないとね。それに……まあ、あんまりね」
ふと見せた暗い横顔。それも一瞬のことで、素直な子供に戻る。
かけら蹴りに飽きた真冬は次にスキップを始め、まつりは速足でそれに付いていった。
◇◇◇◇◇
スーパーに着いた二人は、早速、買い物を開始した。
「おやおやおや親子丼~何買うの、おかーさん」
「まつりさん、まつりさんだからね?」
「何買うの?」
呼び名について一向に受け入れる気配のない真冬。じっくりと訂正していくか、早々に二人との縁が切れるか、真冬に嫌われるしかないだろうか。まつりはそう考えたが、嫌われるということは、自分がそのような問題を起こすということ。子供に対してすべきことではないと、その選択肢は排除した。前者二つに絞った。
「卵と鶏肉、たまねぎ……そういや、真冬ちゃんとお父さん、アレルギーある?」
「お父さん猫。私ウサギ。だから飼育委員にはなれないんだ。犬が好きだから別にいいけど」
「ウサギアレルギー? へえ」
真冬は買い物かごを下げるまつりの前に立ち、「ねえねえ、他に知りたいことは?」
「食物アレルギーがなければいいかな」
「そういうことじゃないよ、趣味とか好きな漫画とかゲームとか」
「なにそれ。お見合いじゃないんだから」
「じゃあ、お買い物しながらお見合いしよ。私の趣味はピアノと公園にいる犬と遊ぶこと。好きな漫画は絶対学園、ゲームは星のマリイ」
まつりはかごにまるっと大きな玉ねぎを一つ入れる。
「うーん、なんだろなー」
子供や学生の頃は何かと興味を持って、部活や習い事などにいそしんでいた。社会人になってからというもの、仕事というより人間関係に疲弊し、時間があれば横になっていて、趣味らしい趣味がなかった。
「……趣味も休日の過ごし方も散歩かな。あと美術館行ったり」サラダ用のレタスやトマトを探しながら「好きな漫画は神社の娘、ゲーム……最近はクリスタル・ファンタジー・ワールドかなあ」
「あ! 私も最近始めた! フレンドになろ!」
「おお、真冬ちゃんもやってるんだ?」
「そう。いがーい。おかーさんも好きなんだオンラインゲーム」
「RPGがね。違うキャラになって冒険できるのがいいじゃん」そう言い、黄色いパプリカを入れた。
「お父さん、クリファン作ってるよ」
「作ってない!」
二人の後ろからそう声がした。
「あ、宇那木さん」
「やっときた~遅い」
「俺はゲーム作ってるんじゃないの、ゲームのウェブサイトを作ってるの。すいません、遅くなって。お買い物進んでますか」
「はい。これからメインの鶏肉を」
「じゃあ肉んとこいこ」
鮮魚を無視し、真冬は早足で精肉売り場へと進み始めた。「おい、真冬」と、大人二人はそれを追いかけた。
「鶏肉これ?」
真冬が持ってきたのは、国産のブランド鶏肉。名無しの国産よりも、二倍の値段だ。
「高級すぎるからこっち」
と、まつりが手にしたのは、お買い得品の名無しの国産鶏だった。
「高級だめ?」
「真冬ちゃんのお父さんの稼いだお金で買うんだから。人のお金だからって高級なものは買わないよ」
「節約?」
「そう、節約」
真冬はにやにやし、両手で口を抑えてくすくす笑い始めた。節約のどこに笑う要素があったのかわからないまつりは、不思議に思いながら鶏肉をかごにおさめた。
「うちのために節約してくれるんだ。やっぱりお母さんじゃん」
と、まつりに抱きついた。まつりの口のあたりに真冬の頭頂部が触る。ふわっとした髪が、まつりのくちまわりをくすぐる。
「だから、お母さんじゃない。節約は一人暮らしでも当たり前なの。お買い物するようになるとわかるよ、ほら離れて、買い物できないから」
はーいと、真冬は素直に離れ、つぎはかごを持っていない方の手を握った。
ふりほどくほどの感情はなく、まつりはそのまま卵コーナーへ向かう。
姉が生きていたら、真冬と手を繋いでスーパーで買い物をしていたのだろうか。駿は二人の後ろ姿に切なさを覚えると同時に、まつりに言語化できない思いも抱き始めていた。