私の死生観
今日は少し長くなるかもしれませんが、自分の死生観を言語化してみます。
7月に体調を崩した母方の祖母が亡くなりました。
上の記事を書いた時から祖母に対する別れを強烈に意識するようになりました。元々患っていた認知症の症状が進行しているのは知っていましたが、GWに入居している施設を訪問した時はまだまだ元気だったので、7月末にお見舞いに訪れた時は愕然としたのを覚えています。
死=終わりではない
母は祖母が死ぬのを「怖い」「死んでほしくない」と言っていましたが、私としては7月末から毎週のようにお見舞いに行き、今までのお礼を伝えてきたので、冷たいと思われるかもしれませんが、来るべき時が来たのだと思いました。
梨木香歩さんが著された『西の魔女が死んだ』に登場するおばあちゃんは死=魂が身体から離れて自由になることだと述べています。『西の魔女が死んだ』は「シロクマはハワイで生きる必要はない」というセリフの方が有名ですが、死=終わりではないという価値観も印象に残りました。
寿命の長さと充足さは必ずしも比例しない
梨木香歩さん繋がりでもう1作品『冬虫夏草』を紹介します。私が繰り返し読んでいる『家守綺譚』の続編ですが、こんな1編があります。
サルスベリの枝先にモリアオガエルの卵塊があり、その下には池でイモリが口を開けて待ち構えている。孵化したオタマジャクシは僅かしか生きられないかもしれないけど、月光を一身に浴びた一瞬の生が幸せか不幸かは分からない。そんな1編が私の死生観に影響を与えました。
私の死生観
もし明日死神に会って「お前の命は今日で終わりだ」と告げられても受け入れるような気がします。もちろんまだまだ生きていたいし目標もあるし、趣味を続けて、温泉に入って、酒池肉林とは言いませんがたまに美味しいお酒や料理を食べたい。noteもまだまだ続けていきたい。
少し前に副業で趣味の教材を作成したことがあります。評判は上々のようで、生きた証と書くと大げさかもしれませんが、自分の作った教材でその趣味を始めた人がいるかもしれない!というのはかなり人生のターニングポイントになったのは間違いありません。
この趣味のモチベーションがガクッと下がってしまいましたが、毎日を丁寧に生きることを心がけて、また明日から頑張ります(紹介した小説の「精神を養う」「精神を鍛える」というセリフに繋がるし、祖母も見守ってくれていると思うので)。