旅が教えてくれたこと
患者会で出会った同病の友達。彼女たちが私の住む京都府京丹後市に遊びに来てくれたのは2023年の初夏のこと。
たくさんの忘れられない思い出が、今の私の原動力にもなっています。
難病の診断と患者会の出会い
私には、幼少期から運動発達の遅れがありました。母の話では、つかまり立ちまではできたけど、一人歩きがなかなかできなかったそうです。
その為、母は子ども療育センターに私を連れていき診てもらったところ「脳性麻痺」との診断を受けました。
おそらく、2歳くらいのことだと思います。
その後、中学生になって初めて脳性麻痺ではないと言ってくれた小児科医に出会いました。
大学病院で検査を受けた方がいいということになり、2〜3週間ほど精密検査を受けることになりました。
中学2年生の時のことでした。
この時、末梢神経系の病名が初めてつきましたがそれでも確定診断には至らなかったのです。
それから月日は流れ大人になっていきました。
私の中でそこまで病名へのこだわりもなかったのですが、結婚を機にやはりもう一度ちゃんと調べてもらった方がいいという気持ちが芽生えました。
そして、ご縁があって出会った神経内科の医師によって、初めて確定診断がついたのです。
『シャルコー・マリー・トゥス病』という初めて聞く名前の病気でした。
33歳の時でした。
遺伝性の末梢神経疾患であること、緩徐に進行する病気であることなどが告げられました。
確定診断がついたことで、自分の病気について他者に説明しやすくなり、この頃からなんとなく自分のことを他人に話せるようになった感覚がありました。
インターネットで検索してみると、シャルコー・マリー・トゥス病の患者会があることがわかりました。
横浜であった患者会に初めて参加したのは2014年のことでした。
同じ病気を持つ仲間との交流のスタートでした。
丹後へ行ってみたい
患者会で出会った友達の1人が、ずっと丹後に行ってみたい、かさい食堂に行ってみたい、と言ってくれていました。
来てもらいたいとは思ってはいるものの、それはなかなか現実にはなりませんでした。
ある日別の友達が、私のYouTubeチャンネルを観てくれ、ここに行ってみたいと言ってくれたのです。
そのYouTubeチャンネルとはこちら。
それから、「行ってみたい」が「行こう」に変わり、具体的な話へとなっていきました。
試練の多い現実
しかし、丹後旅の決行には様々な難題もありました。
丹後に来るメンバーは3人。それぞれ京都、兵庫、大阪と場所はバラバラ。しかも全員車いすユーザー。
3台の車いすが一緒に動くこと(丹後に来たら私入れて4台が一緒に動くことになる)、丹後地域の鉄道関係の利便性の悪さ、そして丹後に来てからの移動手段など課題がたくさんありました。
色々な準備をしていく中で、やっぱり難しいかもしれない、と弱気になることもありました。
でも、どうにかこうにか実現にこぎ着けたのです。
行きたいと言ってくれているコースの下見をしてシュミレーションをしました。
3人は同じ電車で丹後まで一緒に来れることになり、丹後での移動は私の車と介護タクシーを利用することになりました。
行きたかった場所、来て欲しかった場所
1泊2日の丹後旅。
彼女たちが行きたいと言ってくれた美術館や天橋立遊覧船とケーブルカー。
バリアフリーサウナと米ぬか酵素風呂。
そして、かさい食堂。
全部現実にしました。
天橋立でお別れするときは涙が溢れました。
来てもらえてよかった。心から思いました。
もっと来てもらいやすい街に
「こんな大変なところから、笠井さんはよく来てくれてたね」
そう言った彼女たちの言葉が印象的でした。
これまでは、私が丹後から京都市内や大阪に行くばかりでした。こんな不便なとこだったんだね、ということがわかったとのことでした。
この旅を通して改めて思いました。
この丹後地域がどんな人にも来てもらいやすい地域にならないといけない。
せっかく素晴らしい資源がたくさんあるのだから。
これまで以上にそう思うようになりました。
それは、物理的にも多くの改善が求められますが、一方で少しの人の優しさや気づきで行動ができることもたくさんあることもわかりました。
この丹後旅に来てくれた仲間の1人が、5ヶ月後に突然亡くなりました。
私のYouTubeを観て、丹後に来たいと言ってくれた彼女。
彼女の優しさと賢さがなければ、この旅は実現しなかったと思うのです。
これからの私にできること。それを教えてくれたんじゃないかなと思っています。