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ポケモンキッズと旅する 第41回 シキジカ|神奈川県小田原市
本記事をご覧いただき、誠にありがとうございます。
第四十一回、小田原とシキジカです。
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春、桜の季節の小田原城です。
小田原にシキジカを連れてきたのは、小田原城を奪取したエピソードによります。
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小田原城は、相模湾を望む小田原の地に堂々とそびえ立つ城です。
小田原城の起源は15世紀中頃、大森氏によって築かれたとされています。
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北条氏の初代である北条早雲が小田原城を手に入れた経緯には、興味深い逸話が残されています。
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伝承によれば、北条早雲は小田原城主の大森氏に対し、謀略を用いて城を手に入れたとされています。
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北条早雲はまず大森氏と友好関係を築き、ある日、北条早雲は大森氏に「箱根山で鹿狩りをしたいので、領内に入らせてほしい」と申し出ました。
大森氏はこれを許可、北条早雲は大森氏領内に鹿狩りに偽装した兵を忍び込ませました。
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そして夜、千頭もの牛の角に松明を括り付け、大軍が押し寄せているかのような錯覚を小田原城内に与えました。
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この「火牛の計」と呼ばれる策略により、北条早雲はほとんど戦闘もなく小田原城を手中に収めたと伝えられています。
ただ、このエピソードは後世の創作である可能性もありますが。
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そう、シキジカを連れてきたのは、北条早雲が小田原城を奪った策略を意識してのことです。
あの、シキジカが小田原城内に逃げてしまったので、捕まえるために場内に入っても構いませんか?
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小田原城天守閣に来ました。この天守閣は江戸時代・宝永年間のものを復元したということのようですが。
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小田原の北条氏は元々北条を名乗っていたわけではありませんでした。
関東の民の心を掴むにはどうすれば良いかと考え、鎌倉幕府の執権を務めた北条氏にあやかり、自分たちも北条と名乗るようになりました。
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また、小田原北条氏は、鎌倉北条氏の家紋であるトライフォース「三つ鱗」を基にした「北条鱗」を使用しました。
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鎌倉幕府の北条氏と区別するために、小田原の北条氏を「後北条氏」と呼ぶこともあります。
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北条早雲の入城以降、小田原城は急速に拡張されていきました。
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特に、城と城下町を囲む総延長9キロメートルにも及ぶ「総構え」と呼ばれる防御施設が有名です。
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要塞化するにつれて、上杉謙信や武田信玄といった名だたる武将も落とすことができないほど小田原城は難攻不落となりました。
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またこの小田原城の拡張は城下町に多くの寺社や商家が立ち並ぶこととなり、経済面などでも発展していきました。
ということで、北条氏の下での小田原城は着実に大きな発展をしていきました。
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しかし、やがて訪れる豊臣秀吉による小田原征伐が、小田原城と北条氏にとっての劇的な転換点となります。
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天下統一の最後の総仕上げ、北条氏を討つ。
豊臣秀吉は総力を挙げてこの難攻不落の小田原城に挑むこととなります。
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1590年に豊臣秀吉は20万以上といわれる大軍を率いて小田原に押し寄せました。
対する北条氏は5代目・北条氏直の時代、軍勢は5万程度と言われ、圧倒的な兵力差がありました。
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北条氏は難攻不落の小田原城に籠城し、持久戦の構えを見せました。
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豊臣秀吉は、まず北条氏の支城を攻略していきます。
山中城や韮山城など、城が陥落していきました。
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この支城のうちの1つ、忍城は別の機会に訪れているので、順番が回ってきたらまた投稿したいと思います。
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そして小田原城。
20万以上といわれる大軍で陸からも海からも小田原城を包囲。
そして奇策「石垣山一夜城」に出ます:豊臣秀吉は、小田原城を見下ろす石垣山に城を築くことに。
一夜にして城を築く わけではなく、城を数週間かけて陰にこっそり建設、城が完成すると、一晩のうちに木をきれいに伐採。
翌朝、小田原城に籠城する北条氏は、あたかも一夜にして出現したかのような城を目にすることに。
一夜にして城を築く豊臣軍に勝てるはずがない。
小田原城を囲んでいる豊臣軍は歌とか宴とかで盛り上がってなんか余裕を見せているし。
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このような演出により、籠城する北条軍の戦意喪失をさせる策を次々と繰り出しました。
そして籠城戦の末、北条氏直が開城。小田原城は落城しました。
これにより、北条氏の5代に及ぶ支配は終わりを告げ、秀吉の天下統一が完成しました。
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かつて上杉謙信や武田信玄でも落とすことができなかった難攻不落の小田原城も、ランチェスター戦略的な意味で圧倒的強者となった豊臣秀吉だったからこそ落とすことができたのでしょうか 。
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小田原征伐により豊臣秀吉は小田原の北条氏を滅ぼしたことで空いた関東の地に、東海地方にいた徳川家康に移ってもらいました。
表向きは大幅な石高増という栄転でしたが、徳川家康は京から遠ざかる形となりました。
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初代・北条早雲が鹿狩りを装って城を奪取した策略から、5代目・北条氏直が豊臣秀吉の一夜城の計に敗れるまで、戦の本質は騙しあいにある、相手の虚を突く「兵は詭道なり」という本質がここにあります。
原寸大や未公開の写真は写真投稿サイトFlickrにございます。
ここまでご覧いただきどうもありがとうございました。次回もお楽しみに。