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ポケモンキッズと旅する 第62回 フリーザー|滋賀県彦根市

本記事をご覧いただき、誠にありがとうございます。

第六十二回、フリーザーと彦根です。

あの某、愛らしいゆるキャラで有名な彦根城に来ました。

「井伊の赤備え」という赤い兜を着ているその背景を探って行きましょう。

彦根城は関ヶ原の戦いの数年後という江戸時代の極初期に建設が始まり、約20年の歳月をかけて完成しました。

琵琶湖東岸に位置し、東には関ヶ原方面へ鈴鹿山脈を越える中山道、北には北陸へと続く街道があり、陸路と琵琶湖の水運との結節点として機能しました。

佐和山と琵琶湖の間という、琵琶湖東岸の狭隘な地形に彦根城の敷地を幅広くとることで、交通を掌握しています。

戦国時代中期には、織田信長がここから少し北の長浜に秀吉(この時は何て苗字を名乗ってましたっけ?)を配置しています。

江戸時代に入ると、彦根城を中心とした彦根の街が琵琶湖東岸の中心地として台頭します。

(ちなみに、現代では琵琶湖東岸の交通の要衝ポジションは米原が中心となっています。)

江戸幕府が開かれた後(徳川家康が天下を統一した後)、江戸幕府の体制が整いつつある中で、西国大名に対する監視と牽制のため、彦根に重要な役割を与えました。

その彦根城を与えられたのは井伊家で、遠江国井伊谷(現在の静岡県浜松市)を出自とする名門でした。

戦国時代中期、東海道で今川氏の勢力が強かった頃には、井伊家は今川氏に付き従わざるを得ない状況でした。

今川氏が没落すると、同じく今川氏に付き従わざるを得なかった立場で、今川氏から独立したばかりの徳川についていくことになりました。

徳川に古くから仕えてきた家臣と比べると、戦国時代にはまだまだ井伊氏は外様的存在でしたが、やがて譜代大名へと昇りつめました。

井伊家の軍団はその勇猛果敢な戦いぶりから、「井伊の赤備え」として知られていました。

そしてその井伊家の彦根での歴史は、関ヶ原の戦いで活躍した井伊直政から始まります。

徳川家康は井伊直政に関ヶ原の戦いでの戦功などにより、近江国佐和山城(関ヶ原の戦いで西軍総大将・石田三成の居城だった)を与えました。

山城から平城へという時代の流れ、また井伊直政が石田三成の居城だった過去のある佐和山城を嫌ったのか、井伊家は山にある佐和山城から琵琶湖畔の平地の丘へ城を移そうとします。

息子・井伊直孝の代のとき、大坂の陣で戦功を挙げたこともあり、井伊氏は大大名として広大な領地を持つこととなりました。

徳川将軍家を支える重要な存在となっていった井伊家の権勢を象徴する堅固な城郭として、彦根城は完成しました。

江戸時代を通じて、井伊家は譜代大名として幕府の重要な地位を占め、代々彦根城を居城として幕末まで栄華を誇りました。

幕末に至り、13代藩主・井伊直弼が大老として登場します。

井伊直弼は安政の大獄という粛清を断行し、桜田門外の変で暗殺されました。

そして現在、彦根城は徳川幕府の威光を示す立派な建築を今に伝える、現存12天守の一つとして知られています。


彦根城内の一角、彦根城の北東に位置する玄宮園は、江戸時代の大名庭園である池泉回遊式(池の周りを散策して景色の移ろいを見て回る形式)の庭園です。

玄宮園の名は、唐の玄宗皇帝の離宮庭園を参考にしたことに由来するといわれています。

1678年頃、彦根藩4代藩主・井伊直興によって造営開始されました。

魚躍沼と呼ばれる池を中心に、四季折々の景色を楽しめるよう設計されています。

玄宮園の最大の特徴は、彦根城天守を借景(庭園の外にある風景を庭園の景観の一部として見立てる手法)として取り入れている点です。

池越しに庭園の向こうに聳え立つ天守を望むことができ、絶妙な景観美を生み出しています。

池の中には島が設けられ、それらをつなぐ橋が架けられるなど、変化に富んだ景観が楽しめます。


原寸大や未公開の写真は写真投稿サイトFlickrにございます。

ここまでご覧いただきどうもありがとうございました。次回もお楽しみに。