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ポケモンキッズと旅する 第79回 レシラム|宮城県白石市
本記事をご覧いただき、誠にありがとうございます。
第七十九回、レシラムと白石です。
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まず、キャラ選定理由から。
地名に「白」が入っているにとどまらず、対になる存在(青森県黒石市のこと)もあるので、連れて来るのはレシラムにしました。
まだ行ったことはありませんが、いつか、黒石にゼクロムを連れて行きたいです。
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さて、白石城は本丸を丘陵の尾根筋に配置した平山城で、周囲を一望できる戦略的な立地にあります。
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天守閣からは、東側を見れば白石の市街地が一望できます。
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また、西側には蔵王連峰の雄大な景色も望むことができます。
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この眺望は、裏を返すと、かつて敵の動きをいち早く察知するための重要な役割を果たしていました。
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城の周囲には、厩曲輪や二の丸など複数の曲輪が配置され、堅固な防御体制を築いています。
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白石城は、仙台の南を守る要衝に位置しています。
仙台エリアへの南からの侵攻経路は、東北本線ルートと常磐線ルートの2つに限られるため、白石城はこれらのルートのうちの一つを効果的に抑えることができる重要な拠点となっていました。
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白石城の起源は中世末期にまで遡り、当初は地元の土豪である白石氏の居城として築かれたと伝えられていますが、やがて戦国時代に入ると、この地域は伊達氏の勢力下に組み込まれました。
しかし、天下統一を果たした豊臣秀吉により、伊達政宗から白石の地が取り上げられ、代わりに蒲生氏郷に与えられました。
蒲生氏郷の家臣である蒲生郷成の手によって、白石城は本格的な城郭へと整備されていきました。
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その後、上杉氏の支配を経て、伊達政宗は上杉征伐によって白石城を再び自らの支配下に置きます。
伊達政宗は、当初、叔父の石川昭光を城代として白石城を管理させましたが、後に生涯の盟友である片倉小十郎景綱に白石城を与えました。
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※白石城主である片倉家の当主は、初代片倉小十郎景綱以降、「片倉小十郎」を名乗ることがありました。
そのため、具体的な名前が必要な場合には、初代片倉小十郎景綱や幕末の片倉小十郎邦憲といった形で記載しますが、基本的に本記事内では全員「片倉小十郎」と表記します。
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片倉小十郎は、若い頃の伊達政宗の傅役(教育係)を務め、深い信頼関係を築いていきました。
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二人の間には10歳ほどの年齢差があり、片倉小十郎は単なる家臣としてではなく、主従を超えた信頼関係として伊達政宗を支えました。
特に、伊達政宗の実父である伊達輝宗が家督争いの渦中で命を落とした後は、片倉小十郎は政宗の精神的な支えとなり、生涯にわたる忠誠を誓いました。
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片倉小十郎は、戦場では軍師として冷静な判断で伊達軍を勝利に導き、日常生活では伊達政宗の相談相手として、常に側に仕えました。
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そんな二人の絆の強さを示すエピソードとして、人取橋の戦いが挙げられます。
この戦いでは、伊達軍は数で勝る敵軍に苦戦を強いられましたが、片倉小十郎は自分こそが伊達政宗であると名乗り、敵の注意を引きつけることで伊達政宗の窮地を救いました。
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そんな伊達政宗と片倉小十郎の深い信頼関係の象徴ともいえる出来事が、仙台城の南方面に位置する要衝である白石城の拝領でしょう。
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幕末、白石城は戊辰戦争の渦中、奥羽越列藩同盟の重要な舞台となりました。
仙台藩を中心としたこの同盟は、白石城で結成会議を開き、ここで同盟の戦略が練られました。
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白石城主・片倉小十郎邦憲(※これ以降、片倉小十郎とは邦憲のこと)にとっての正念場:新政府軍という相手に、仙台城の南方面の抑えという白石城の役目をついに果たすときが来ました。
しかし、新政府軍の圧倒的な勢力を前に劣勢を強いられ、仙台藩も降伏。
白石城は新政府軍に明け渡されることになりました。
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その後、片倉小十郎は、家臣とともに北海道への移住を決意し、新天地での再起を図りました。
現在の札幌市白石区の名はこの白石城旧城主の縁を慕って命名されました。
原寸大や未公開の写真は写真投稿サイトFlickrにございます。
ここまでご覧いただきどうもありがとうございました。次回もお楽しみに。