ポケモンキッズと旅する 第29回 ツタージャ|静岡県浜松市
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第二十九回、ツタージャと浜松です。
静岡県浜松市の浜松城は、三方ヶ原台地の端に位置する城郭です。
台地の端に位置するということは、台地の崖を天然の石垣として利用しているということですね。
城の端から見下ろすと、現代の建物も城より低い位置に立っていることが分かります。
浜松城は、もともと15世紀に曳馬城として築かれましたが、徳川家康が岡崎城から移ってきて入城した際に、もともとの城を前身として改築、浜松城と改称されました。
天守閣から展望すると、城より低い標高に建物が建っている方向と、城と同じ標高に建物が建っている方向とがあることがわかります。
城と同じ標高の台地、これが三方ヶ原台地です。
この城は、徳川家康が29歳から45歳までの間を過ごした場所で、徳川家康の人生における重要な試練の場でもありました。
その試練の最たるものが、三方ヶ原台地で武田信玄と徳川・織田連合軍が激突した三方ヶ原の戦いです。
(徳川・織田連合軍といっても、徳川家康の本隊と、徳川-織田の同盟により織田側から派遣された援軍で、織田信長本人は来ていません。
本人が来るのは以降の長篠の戦いなど)
浜松城付属の日本庭園に来ました。
紅葉の日本庭園の写真とともに、その後どうなったのかを見てみましょう。
三方ヶ原台地で対峙する武田軍と徳川・織田連合軍。
と、武田軍は徳川・織田連合軍を素通り、三方ヶ原台地を西へと逃げていく。
武田軍の素通りを許したとあっては恥だと、徳川家康は追撃に出る。
これが罠でした。
武田軍は反転攻勢、徳川側は壊滅的な打撃を受け、徳川家康自身も命からがら浜松城に逃げ帰ります。
この時を忘れず教訓とするため、徳川家康はわざと自らの情けない姿を画家に描かせたとも。
参考:『徳川家康三方ヶ原戦役画像』
そんなこともあったものの浜松城は、徳川家康自身が天下統一への足がかりとした地です。
その後も、徳川家康が開いた江戸幕府の時代を通じて、水野忠邦をはじめ浜松城主を務めた多くの大名たちが幕府の重鎮へと出世していきました。
こうした歴史的背景から、浜松城は「出世城」として有名になりました。
特に出世を目指す方々にとっては、ここ浜松城を訪れることは単なる観光地ではない特別な体験となるでしょう。
さて、日本庭園の背景の一部であるかのように浜松城が見えます。
庭園の外にある自然の風景や建造物を、庭園の一部であるかのように見せる日本庭園の技法「借景」です。
この借景の写真を最後といたしましょう。
原寸大や未公開の写真は写真投稿サイトFlickrにございます。
ここまでご覧いただきどうもありがとうございました。
次回もお楽しみに。