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ポケモンキッズと旅する 第52回 ヨノワール|滋賀県長浜市

本記事をご覧いただき、誠にありがとうございます。

第五十二回、ヨノワールと長浜です。

まるでダンジョンに入る前の中ボスのような空気感の写真ですね。

琵琶湖の東岸に佇む長浜城は、豊臣秀吉の出世の足掛かりとして知られる城です。

(※私は基本的に、歴史上の人物は常にフルネームで呼ぶようにしていますが、豊臣秀吉だけは何度も苗字を変えているため、例外的に下の名前だけで呼びます)

この城は、元々「今浜」と呼ばれた地に築かれ、秀吉がやってきた際に「長浜」と改名されました。

ここ長浜城のすぐ北を流れる姉川は、織田信長・徳川家康連合軍と浅井長政・朝倉義景連合軍が激突した姉川の戦いの舞台です。

姉川の戦いは、織田信長の妹婿である浅井長政の裏切りから始まりました。

織田信長が越前の朝倉義景を攻めようとした際、浅井長政は織田信長との血縁関係にある同盟より旧誼を重んじて、織田信長に反旗を翻しました。

越前(福井)にいる朝倉義景を攻めようとしているときに、北近江(北滋賀)にいる浅井長政に裏切られたら、背後から襲われ挟み撃ちにされる格好になりますね。

そこから織田信長らは辛くも逃げ帰るはめになりました。

怒りに燃える織田信長は、浅井・朝倉に報復することに。

戦いは姉川を挟んで始まり、当初は浅井長政・朝倉義景連合軍が優勢でした。

しかし、徳川家康軍の奮戦により、戦況は一変します。

徳川家康の家臣、榊原康政が朝倉義景軍を横から攻め、混乱に陥れました。

さらに、織田信長軍の援軍が到着し、数で劣る浅井長政・朝倉義景連合軍は敗走を余儀なくされました。

こうして、姉川の戦いは織田信長・徳川家康連合軍の勝利に終わりました。

その後、比叡山焼き討ちなどを経て、浅井・朝倉両氏の滅亡となりました。

秀吉は、小谷城を拠点としていた浅井長政の旧領の多くを引き継ぎ、小谷城に入りましたが、山城だったため防御面では有利でも日常生活にはなにかと不便。

そこで目を付けたのが、琵琶湖東岸の「今浜」の地でした。

高さによる防御力を活かせない琵琶湖の畔に位置する城にはどのような戦略的意図があったのでしょうか。

実は、琵琶湖を利用した水上交通の要衝として、城の重要性は高かったのです。

長浜城の立地は、織田信長による琵琶湖の水運の戦略の一環として重要な意味を持っていました。

長浜城は、琵琶湖東岸に位置し、織田信長の安土城(琵琶湖南岸)や明智光秀の坂本城(琵琶湖西岸)などと水上交通で結ばれていました。

この立地は、単なる防御拠点としてだけでなく、琵琶湖の水運を掌握する上で戦略的に重要でした。

また、この立地は琵琶湖の水運で軍勢を迅速に移動させることもでき、戦略面でも大きな利点がありました。

このように、長浜城は琵琶湖の水運において、北の要として重要な役割を担っていました。

このように重要な要衝の地だったからか、織田信長の「長」の字を拝領して「今浜」を「長浜」と改名したとされています。

そののち、本能寺の変後、織田信長の後継者を決める清須会議が開かれます。

ここで、柴田勝家の希望により、長浜城は勝家の甥である柴田勝豊のものとなりました。

織田家臣団の内紛に発展すると、秀吉が柴田勝豊の城となった長浜城を攻めて開城させ奪い返しました。

長浜城を奪還した秀吉は、山内一豊を城主として置き、再び自身の影響下に置きます。

山内一豊は、秀吉の信頼厚い家臣(豊臣系諸将と言われる人の一人)として長浜城に入城しました。

関ヶ原の戦い(山内一豊はこのとき掛川城城主で、豊臣系諸将だったものの徳川家康に味方)を経て徳川家康が天下を統一すると、長浜城には内藤信成が入城しました。

内藤信成は、徳川家康の異母弟とされる人物でした。

そして最終的に、一国一城令により、長浜城はとなります。

長浜城の石垣や建材の一部は、彦根城の築城に転用されたと言われています。

廃城により転用された彦根城の投稿はいずれまた。


原寸大や未公開の写真は写真投稿サイトFlickrにございます。

ここまでご覧いただきどうもありがとうございました。次回もお楽しみに。