ポケモンキッズと旅する 第47回 パチリス|愛知県名古屋市 名古屋城 ほか
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第四十七回、パチリスと名古屋城の威容です。
名城公園です。
古地図によると名城公園の南側は、かつて名古屋城の堀に連なる沼があったところです。
一方、名城公園の北側は、江戸時代に「御深井庭」と呼ばれた名古屋城の付属の庭園の跡地です。
ここは、名古屋城創建時に北側にあった低湿地を活かして造られた、池を中心とする庭園でした。
借景(庭園の外にある山並みなどを、庭園の一部であるように見立てる造園手法)として、池の向こうに名古屋城が見えます。
埋め立てられた南側と一体となった公園の土地として、現在もこの起伏を活かした庭園として生かされています。
チューリップや睡蓮など季節の花が植えられた都市公園となっています。
南に隣接する名古屋城に移ります。
この城は、徳川家康により1612年に天守閣が完成、全体としては1615年に完成しています。
天守閣内から周囲を見渡すと、一見平坦な土地に立地するように見えますが、名古屋城は台地の北西端に位置しています。
北や西からは緩やかな上り坂になっているため、高低差を生かした防御機能を持たせることができています。
名古屋城の天守閣は、日本最大級を誇る5層構造の壮大な建物でした。
金鯱を頂くその姿は、遠くからでもその存在感を放っていました。
また城の敷地は、本丸を中心に二之丸、三之丸と広がり、堅固な防御体制を築いています。
天守閣から地上に降りてくると、やはり桜の季節です。
花びらが散らばっていましたので、ポケモンキッズだからこそできる写真を。
この時代にこれだけの大規模な城を、城下町を含んで新たに建設するとなると、そこに住む人はどこから来たのでしょうか。
これには城の建設と並行して行われた「清洲越し」という大規模な移住計画がありました。
古くからの中心都市である清須の住民を新たな城下町となる名古屋へ移住させました。
なぜこれだけ大規模な城を徳川家康は名古屋の地に建設したのでしょうか。
西日本に多く配置した、関ヶ原の戦いの後に徳川家に臣従した外様大名への抑え、特に大坂城にいた豊臣家への抑えのためです。
その抑えのため、名古屋城には徳川家康の9男・義直が入城しています。
徳川家康の9男・義直を祖とするのが尾張徳川家で、徳川御三家の筆頭格として知られています。
徳川御三家とは、徳川を姓とし、江戸幕府の将軍家が断絶した場合に跡継ぎを輩出する権利を持つ徳川の分家3家(尾張徳川家、紀州徳川家、水戸徳川家)のことです。
「3家」に丁寧語の「御」を付け徳川御三家。単に御三家とも。
(他の御三家もあったでしょうが)その言葉が転用され並び称される三者を「御三家」というように。
まさか、ポケモン本編で最初のパートナー選択の3体を御三家という言い方をするようになるとはね。
名古屋城は、この尾張徳川家の居城として江戸幕府のもとでの重要な役割を果たしました。
このような経緯により、名古屋の街は短期間で整備され、新たな中心都市として発展していきました。
うってかわって、現代の名古屋を象徴する場所、オアシス21へと足を伸ばしました。
栄の中心に位置するオアシス21は、2002年に誕生した複合施設です。
シンボルとなる「水の宇宙船」は、地上14メートルに浮かぶガラスの大屋根です。
この屋根の上には薄く水が張られ、美しい波紋を描きながら流れています。
「水の宇宙船」の周囲には約200メートルの空中回廊があり、都市の景観を一望できます。
オアシス21は、歴史ある名古屋城とは対照的な、現代的で革新的な都市の姿を体現しています。
原寸大や未公開の写真は写真投稿サイトFlickrにございます。
ここまでご覧いただきどうもありがとうございました。次回もお楽しみに。