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ポケモンキッズと旅する 第77回 ドリュウズ|福島県会津若松市

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第七十七回、ドリュウズと会津若松です。

会津若松の地に佇む鶴ヶ城は、戦国時代よりもさらに古く、南北朝時代にまで遡ります。

14世紀後半~15世紀初頭の間に、葦名直盛によって築かれたのが、鶴ヶ城の始まりでした。

初期の頃は黒川城として知られていました。

伊達政宗がこの辺りを平定した際には、この城に入城したことでも知られています。

しかし、その在城期間は短く、翌年には蒲生氏郷に城を明け渡すことになります。

その蒲生氏郷の時代に7層の天守閣が完成し、城名も鶴ヶ城へと改められました。

その後、越後国から異動してきた上杉景勝が城主となり、会津の地を治めることになります。

上杉景勝の時代、会津は関ヶ原の戦いのきっかけとなった会津征伐の舞台としても重要な役割を果たしました。

江戸時代に入ると、鶴ヶ城は会津藩の居城として、複数の城主を経て、松平家の手に渡ります。

初代藩主の保科正之以降、歴代の松平家が城主を務めることになりました。

初代藩主の保科正之は、3代将軍徳川家光の異母弟という出自で、1643年に会津藩の大名として入封しました。

その後、三代藩主の保科正容の代に松平姓の使用が公式に認められました。

松平姓は徳川家康がもともと名乗っていた苗字で、江戸時代になると徳川家の縁戚に名乗ることが許された苗字となりました。

これにより、会津藩は親藩として徳川幕府との強い結びつきを示すことになりました。

会津藩松平家はその後も代々、鶴ヶ城を居城として藩政を担っていきます。

幕末の動乱期、戊辰戦争が勃発すると、会津藩はその徳川幕府との強い結びつきゆえに旧幕府軍の中心勢力として新政府軍と対峙します。

母成峠の戦いで会津藩領への新政府軍の進入を許すと、会津藩は支城である猪苗代城に火を放って撤退(⇒第68回)したとされ、本拠地である鶴ヶ城に籠城して徹底抗戦を選びます。

会津藩の必死の抵抗により、新政府軍は城を落とすことができません。

その後も新政府軍は包囲を続け、鶴ヶ城は外部からの支援を絶たれます。

鶴ヶ城の籠城戦は、約1ヶ月にわたって続きました。

この間、鶴ヶ城は新政府軍からの激しい砲撃に耐え続けましたが、ついに鶴ヶ城の大手門に「降参」の白旗が掲げられたことで、鶴ヶ城の戦いは終結しました。

この鶴ヶ城の籠城戦は、壮絶な戦闘と悲劇的な内容、そして会津藩士たちの武士としての誇り高い生き様を示す戦いとして、後世に語り継がれる歴史的な出来事となりました。

私が訪れた時、空から舞い降りる雪は、城を幻想的な雰囲気で包み込んでいました。

雪は深く積もってはいませんでしたが、その桜吹雪のような舞いが風景に独特の趣を添えています。

滞在中にも最初に貼った写真では晴れていたのに、終わりの方では雪が舞っていたりと、断続的に降る雪が、趣の違う写真という形で手元に残ります。

天守閣は、舞う雪の向こうに浮かび上がり、また降り積もる雪と調和し、まさに冬の世界の中心にそびえ立っています。


原寸大や未公開の写真は写真投稿サイトFlickrにございます。

ここまでご覧いただきどうもありがとうございました。次回もお楽しみに。