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ポケモンキッズと旅する 第17回 ディアルガ|岡山 後楽園

本記事をご覧いただき、誠にありがとうございます。

第17回、ディアルガと後楽園です。


まずは岡山城。

岡山城は宇喜多秀家によって大規模に改修されました。

烏城とも呼ばれる黒塗りの威厳ある天守閣の外観が特徴的です。

対岸の後楽園に入ってきました。

岡山城からどう後楽園につながっていくのか、岡山城の続きを見てみましょう。

宇喜多秀家は豊臣秀吉の下で小田原征伐に参陣するなどの功で大大名となりました。


大大名の居城として手狭になった城の改築計画として、もとの城のあった丘(石山)を二の丸にし、新たな岡山城となる天守閣を東隣の丘(岡山)北端に築きました。

このため城が「岡山城」という名になり、同時に整備された城下町も「岡山」と地名化、最終的に県名にまでなりました。

岡山城天守閣の西・南には堀があるのに北・東には堀がない?

城の北・東に沿うように、もとは蛇行していた川、旭川の流れを変えて天然の堀としています。

でもこのような地形だと、短期的には天然の堀として使えても、長期的には川の浸食作用を強く受ける位置関係なので、削られかねない地形ですよね。

たしか実際に川の浸食で削られてしまった城もあったような…。

で、宇喜多秀家は関ヶ原戦いで西軍に付いたため流罪、次に岡山にやってきたのは、寝返りで東軍に勝利をもたらした小早川秀秋。

さらに岡山城の拡張をするものの、小早川秀秋は数年で亡くなりました。

寝返られた大谷吉継による3年以内に化けて出てやる発言などもあったことですし。

更にその次に岡山城にやってきたのは池田家。

池田忠雄の時代に岡山城の主要な施設が完成しました。

後楽園は後の世代の岡山藩主・池田綱政によって造営された庭園です。

岡山城から見て、天然の堀として流れを変えた旭川の対岸に位置します。

後楽園の名前は、北宋の范仲淹の「岳陽楼記」に記述された「先憂後楽」に由来し、「天下の憂いに先んじて憂い、天下の楽しみに後れて楽しむ」という意味が込められています。

東京・小石川にある庭園も後楽園と名乗っていますが、どうやら同じ出典のようです。


と、時間軸に沿っての旅路となりました。

原寸大や未公開の写真は写真投稿サイトFlickrにございます。

Dialga in Okayama, Okayama 12 (Korakuen Garden)

ここまでご覧いただきどうもありがとうございました。
次回もお楽しみに。