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他愛もない会話があれば

私は毎日、ほとんどの時間をひとりで過ごす。 おかれた状況と自身の選択が合わさって、そういう日々になった。
5年近く、ほとんどの時間をひとりで過ごしてきて 、自立していようが、内向的だろうが、ときには、他愛もないおしゃべりに飢えることが人にはあるもんだ、と知った。

ふと、ニースで会話をしたおじさんを思い出す。
夫婦2人で、夏に旅行していたときのこと。 クロワッサンとコーヒーの簡単な朝食をとるために、お店に入った。
斜め前あたりの席に座っていたおじさんが、「日本人ですか?」と話しかけてきた。 我々の話し声が聞こえたのだろう。 年齢は60代くらいだろうか。

画家の仕事をしていて、何十年と日本には帰っていないのだそう。
何か事情があるのかな。
 ときに、日本語がすんなり出てこない場面もあった。長らく日本語にふれていないからか、 なんらかの病の後遺症なのかはわからない。

いすれにせよ、おじさんは、日本語を話したいな、と思って、日本人である我々に話しかけてきたわけだ。

親しげではあったけれど、相手の領域にズケズケと踏み込むような話はしなかったし、こちらが返答に困るようなことも言ってこなかった。

別の日も、お茶休憩しようと、同じお店に行ったら、おじさんがいて、少し会話した。

それから何日かの滞在期間、私たちがお店の前を通ると、嬉しそうに手を降って見せたり、少し距離が離れたところからも、私たちを見つけると 「こんにちはー!」と大きな声で挨拶をしてくれた。

朝も昼も夕方も、同じお店にいるのをよく見かけた。そのお店の常連客のようだった。

1日くらいは、おじさんを食事に誘えばよかったかな、と後から思った。

旅先で、隣り合わせた人と何気ない会話を交わすことは、よくあることだ。
けれど、このおじさんのことは妙に記憶に残っている。


子供の頃は、大人が、とくにお年寄りが、天気の話をするのが不思議でならなかった。 見たままのことを、ただ、言い合うことに何の意味があるのだろう、と。

知った顔に、たまたま居合わせた人に、天気の話をできる。
他愛もない会話がどれだけ幸せで、ありがたくて、尊いことなんだと、
今はよくわかる気がする。

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