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碇シンジくんの成長【ネタバレあり】

エヴァが終わった。
2回観ました。
1回目は号泣。号泣しすぎて後半は画面がずっとぼんやり。
2回目でようやくまともに観られたかな。

いつも映画を見た後観る考察とかも、なんだか野暮な気がしちゃってあまり触らず。
まだまだ僕の中で作品が浮遊している感覚です。
どうやら評判はとても良くて、実際僕自身も凄く良かったと思う。

ただ、もはや手放しに良い作品だったと言えるようなコンパクトなものではなく、既に「エヴァンゲリオン」は受け取り手によって形を変える観念みたいなものに変容してしまってますよね。

僕は30歳なのでリアルタイム世代とは程遠く、エヴァに出会ったのは新劇場版が始まった高校時代でした。当時はそこまでハマってなかったかな。破に衝撃を受けテレビ版を履修した上でQを観に行きトラウマを負いました。

僕なんか後追いも後追いですが、それでも思春期から10年以上の付き合いではあるわけです。

エヴァへの再挑戦

僕がテレビ版エヴァを観てからずっと悲しかったのが、シンジくんの扱いでした。
作中の扱いもさることながら視聴者からも「ウジウジしてる」なんて言われていて。
高校生の僕からしたらあんな訳のわからない状況でも頑張る健気な子でしかなかったというか。なんでみんなそんなに冷たいの、って。
Qでその思いはさらに加速しました。みんな酷すぎる。

そして今年。完結編の公開を目の前にして、おさらいとしてほぼ10年ぶりにテレビ版エヴァに再び戦いを挑みました。

結果、シンジくんはやっぱり可哀想でした。
でもびっくりしたのが、一番感情移入してしまったのがミサトさんだったこと。
そりゃ年齢がほぼ同じで、そうなると仕事の立場的にも近くなるもんね。(責任は段違い)
不器用で、なんでそんなこと言っちゃうねんみたいなとこも多いんですが、大人になりきれていない自己嫌悪に苛まれる姿は今の僕に通ずるところも多く。

そのことによって作品の見え方が全然違いました。
昔見た時にはワガママなアスカよりも、嫌に物分かりが良い(よく見える)シンジくんを愚かで幼いとするような描写が多いことが凄く疑問だったんですけど、正直今見るとめちゃくちゃ納得してしまうんですよね。

"聞き分けのいい子"とされる自分を演じていることが大人で賢いことだって思ってるんですよね。でもその考えは、実は大人になることを最も阻害してるんです。 
人は我を通すために誰かと衝突しないと大人になれないんですよね。
それが反抗期なんです。

わかってる大人たちはシンジくんにさらに苛立つところもあるのかな。それは想像ですが。

大人になることを強要され続けたシンジくん。
旧劇場版ではそこに一つの選択を選びましたが、やり直しの物語で傷付き果てた彼は最期にどういう決断を下すのか。
シンジはここから大人になれるのか。
そもそも、大人たちがいう「大人」って一体なんなのか。
そんな疑問を新たに抱えて、ついに「シン・エヴァンゲリオン」公開日を迎えることになりました。

シン・エヴァンゲリオンを観て

冒頭にあるように、泣きました。
ボロボロ泣きました。

シンジくんとミサトさんのやり取りで涙が止まりませんでした。
シンジくんは大人になっていました。

その全てを受け入れ、全てを背負って前に進むシンジくんの姿を見て、「僕の中のエヴァンゲリオン」は完全に昇華されました。

エヴァンゲリオンにはたくさんの魅力があります。
メカとしてのカッコ良さ、演出のケレン味、キャラの魅力、設定の奥深さetc...
ただ、僕の中のエヴァはきっとシンジくんだったんです。彼がどうなっていくのかを見届けることでした。
そして彼は、僕の予想の遥か上の成長を遂げました。

第3村の描写はエヴァという作品において異質だといった否定的な意見を多く拝見しました。
でもあの頃のシンジくんを救うのには絶対に必要だったと僕は思うし、あれをやってくれたことにとても感謝してます。

シンジくんをエヴァに乗る乗らないのループから抜け出させるには深く沈むロイター板が必要でした。それがQだったんですね。

それを作り上げた庵野監督も同じく深過ぎる屈伸をすることになってしまいますが、第3村はそれを乗り越えさせた事柄に重なった描写だったのかもしれません。

とにかく、第3村での丁寧すぎるくらいの時間と心理描写。
僕が最も感銘を受けたのは、シンジくんが14年取り残されなければならなかった理由でした。

大人になること

周りの人間から隔絶されてしまったシンジくん。この事実はシンジを永遠の孤独に落とし込む、最悪の設定になってしまうのではないかとずっと思ってました。

でもそれは、むしろシンジくんに成長を促す荒療治だったんですね。
その心配がバカらしくなるほど彼は大人になった。

大人になったトウジやケンスケ、委員長と再会したシンジくんは、彼らに「大人」を学びます。
何故学べたのか。
勿論加持さんやミサトさんの背中も見てきました。
ただ彼らがシンジくんにとって、
最初から大人だった訳じゃないこと、初めて見た

【大人になった友人】

だったことが全てだと思います。

彼らの「大人」とは


自分がしてしまったことを受け入れ背負い、その落とし前は自分でつけること。
自己を確立し、他者を愛すこと。
そして、自分ではなく他者のために何かを施せること。

と解釈しました。

シンジは綾波たちの優しさで、自分が当たり前に皆から愛されていることを漸く自覚します。
最低まで堕ちてしまった自分を、取り繕っていないガキでバカな自分を心配してくれる人、好きだと言ってくれる人がいる。
そのことで、旧劇場版のように精神世界で自分に語りかけ続けることを必要とせず、心から自分という存在がこの世界にあることを肯定出来たのですね。

そうしてシンジくんは、
「泣いてスッキリした?」
と言うアスカの子供扱いした一言に
「うん。」
とありのままのカッコ悪い自分を受け入れ、素直に答えることが出来たのです。

その後、トウジたちとのやりとりの中で、自分のやるべきこと、落とし前を強く意識していくことになります。

この流れをモノローグ無しで演出してくれたことを嬉しく思いました。
いつもならBGMとの独白があったように思う。
大人に自分語りは野暮なんだよね。

ヴンダーに乗り込んだ後のシンジくんからは自己完結しない、他者の存在を意識した言動が多く見られたように思います。
アスカとのやりとりは勿論、僕が一番泣けたのはミサトさんにリョウジと会ったことを伝えた時です。
「いい奴だった。僕は好きだよ。」
一見普通なんですが、【僕は好き】って言う言い回しは昔のシンジくんから出なかったんじゃないかな。

サクラに銃口を向けられたときも、恐怖ではない、静かに切なげな表情をたたえていました。
いろんな想いを覚えたでしょうが、それも全て受容しているように見えました。

ミサトの想いを受け取ったときもそうでしたね。
ゲンドウにすら大人になったなと言わせるあの超然的な態度。
自分の死や痛み、悲しみよりなんかよりもよっぽど大切なものを優先している、ゲンドウと真逆であり同一のスタンスともいえるかもしれません。

Qのシンジくんとシンのシンジくんは自分が引き起こした事象を挽回すると言った意味では実は同じ目的です。

ただ、同じ目的でも想いが全く違うんですね。
ここでシンジはやり直しに成功しました。
成長したんだね。。。

パートナーってそんなもん

実写世界に飛び出していく最後はある種旧劇場版のポジティブな天丼のような演出でした。
現実に帰れ!から、現実で頑張ろう!みたいな変化を感じましたね。
DSSチョーカーをしているだけにあの時間の経過なんかの細かい真実には辿り着けてない僕なのですが、とても嬉しかったのはラストシーンがマリと共に終わるという点です。

僕は常々アニメで学生時代のカップルがそのまま結ばれていくのに違和感を感じていました。
というか、それを強要するファンにかな。

僕の奥さんも同級生ではないし、僕の大切な友人達も知らないどっかの人に奪われていきました。でもそんなもんですよね。
救いは結構外にあることが多い。

特に旧エヴァという青春にお互いをぶつけ、晒し出し合った相手と歩んでいくのは難しいのかなって思います。
てかトウジと委員長はニアサーの苦労きっかけでっていうのは同窓会でくっつくみたいなリアルさあるし、こっちで勘弁してみたいなズルさも感じますね笑


庵野監督にありがとう

この作品を作ってくれて、僕は庵野監督に本当に感謝したい。
言わば昔の青い自分の日記がいまだに皆に読まれ続けている恥ずかしさ。
自分はその段階を越えたにも関わらず、そこに留まらずにはいられない義務や使命感みたいなもの。
きっと本当に辛かったと思う。

齢60にして、若かりし自分のその遺産に対し今の自分を持って余すことなくケリをつけ切ったその覚悟と誠実さに本当に感服している。

トウジやシンジくん、ミサトさんたちが言う落とし前は完全についた。

この作品は1人の人生の写鏡になっていて、その戦いの遍歴をストーリーを通して体感させてくれる。
僕も大人になって自分の父親と向き合わなければいけないと思った。


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