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憂鬱な放課後の幸福な食卓~学童保育の事件簿~ 1 その戦いはうどんから始まった

  粗筋
 美味しいものが大好きな明里(あかり)は、倒産寸前の社会福祉法人で働く学童支援員。  ブラック企業並みの仕事量と人間関係で、子どもたちのオヤツの予算まで削られる始末。そんななかでも、子どもたちに美味しいオヤツを食べてほしくて奮闘する明里。でも、ブラック企業の横暴はとまらず、更に予算は下がり、上司は理事長の妹が就任することに決まってしまう……。  そんな頃に、明里の妹・美里も、夫家族からのパワハラに耐えかねて逃げ込んでくる。  美味しい食卓に必要なのは、安全で安心できる環境づくり。明里は、学童保育で、妹との食卓で、あたたかい甘いオヤツを作り続けるために……?


 たぶん。私の「食欲」が、この学童を閉所へと追いやった。
        ★
 明里(あかり)の目の前にあるのは、寂しい広いだけの更地だった。
「学童、なくなっちゃったかあ」  
 もうここには、明里が指導員として働いていた放課後学童保育はないのだ。皆で使っていたおもちゃや本も、一円でもお金になるものは、売りに出されたらしい。
 本当に終わったんだな、と明里は思った。
 今感じている感傷すら、やがては過去のものになると思うと、胸が痛んだ。
「明里さん……どうしてここに?」  
 その声に振り向くと、そこには康子(やすこ)さんが立っていた。
「あなたのせいで、こんなことになったのに。子どもたちも居場所をなくして、私達も会社を失って……」  
 憎々しいものを見る目で、康子さんは言った。
 それは、嘘ではないかもしれない。
 確かに、明里がやったことで、学童は無くなってしまったのかもしれない。
 けれど。
 康子さんは本当に「私は悪くない」と思っているのだろうか。
あれだけのことをして、今なお、明里が悪いと本気で思っているのだろうか。
明里は、康子さんを見つめる。
「戦う」ことを決めたあの日を、思い出したのだ。
 美味しい物を食べるために、子どもたちの本当の幸せのために、「戦う」ことを決めたあの日のことを。
                 ★
 不味い。
 それを口にした瞬間、明里はそう思った。
 あきらかに、茹で過ぎである。
 よくもこのような代物を出してきたな、と思ってちらっと横目で食堂のカウンターを見る。
 ちょうど料理長が、誰かの注文した食事を出しているところだった。
 「料理長は料理が上手い」と言うのが、巷の評判だった。
 明里も彼が作るカレーを注文する時があるが、確かに美味かった。
 それなのに、このうどんは、不味い。
 明里達の勤める社会福祉法人の施設は、歩きで十五分ほどの小高い山の頂上付近を更地にして、施設を作ったらしい。
 頂上の方にあるのが、「本部」と呼ばれている老人ホームで、食堂もそこの建物の中にある。そこから下に少し下ると、明里達が勤める学童があり、その隣には児童養護施設があった。
 そして、経営者達の自宅もその後方にある。
 そんな頂上にある食堂にはるばる来たのに、この不味さ。
 明里は、理不尽なものを感じた。
「どうしたの? 真中(まなか)さん」
 そんな明里の様子を見て、向かい側に座った安部(あべ)さんが声をかけてきた。
 安部さんは、明里と一緒に同じ学童で働いているから、この食堂にはいつも一緒に来る。
「うどん。ちょっと茹で過ぎていませんか?」
 安部さんも同じうどんを食べていたので、声を小さめにして言ってみた。
「そう?私には、ちょうどいいけど」
 今年五十代後半を突入する安部さんは、その年代と思えない、ショートカットの黒髪を揺らし、首を傾げる。
「そうですか」
 その返事に、明里は頷いた。
「真中さんは、讃岐うどんの方が好きなの?」
 でも明里の表情を見て、安部さんがそんなことを尋ねて来る。
「讃岐うどん?」
「讃岐うどんはコシがあるからね。地方によっては、くたくたに似たうどんが好まれるけど、讃岐うどんは、弾力があって固めなのよ」
「うどんって、全国皆どこも同じだって、思っていました」
「それがそうでもないのよ。例えば名古屋のきしめんだって、うどんののお仲間なのよ」
「へええ」
 意外なうどんの話に、明里は自分のうどんの不味さも忘れて聞き入った。たかがうどんだが、色々な種類があるのだ。
「うどんの食べ方だって、色々でしょ。例えば私達が食べているのは、「素うどん」と言われているものだけど、茹でたものを冷水でしめてざるに盛ったものは、ざるうどんだし、つゆで煮たうどんは、煮込みうどんでしょ?うどんって、シンプルなだけに色々な食べ方ができるのよね」
 安部さんはそう言って、うどんをすすった。
 明里も、それにならってうどんをすする。
 やっぱりふよふよしていて不味い、と思った。
 だが、残すことはできない。
 料理長は、食器を返す時に、返却口のところに来ていて、いちいち残していないか、チェックしているのだ。
 そうして残している者を見ると、鬼の首を取ったようにして、こう言うのだ。
「そんなに俺の作った飯は不味いか」
 不意に。
 現実に料理長の声が聞こえて来た。
 明里は、視線を返却口に向ける。
 返却口の前には、まだ若い女性が怯えたように立っていた。
 介護のユニフォームを着ているのを見ると、老人介護の方の職員さんなのだろう。
 まだ、入って来たばかりなのかもしれない。
 ここの職員だったら、料理長の悪癖は知っている。
 だから、明里や安部さんは、絶対に残さないうどんを注文するようにしているのだ。
 それでも、明里は時々他の物を注文することもあった。
 料理長が作る料理は本当に美味しいのだ。
 それなのに、料理長の悪癖は、人を傷つけ、追いつめる。
 どうして何だろう、と明里は思っていた。
「料理長、すいません」
 明里は、がたっと椅子から立ち上がった。
 あっ?という表情(かお)で、料理長が明里を見る。
「おうどん、追加良いですか? あ、固めでお願いします」
 猛者だね、と職場に帰った時に、安部さんから言われた行動だった。
                ★
「馬鹿じゃない!」
 だけど。
 パートの谷(たに)さんからは、思いっきり叱られた。
「何度も言っているけど、真中ちゃんが料理長や平(へい)ちゃんの心証を悪くするたびに、そのつけは、ここの管理者である安部ちゃんに行くのよ!?」
「すいません……」
 所謂「おばちゃんパーマ」をした髪を振り乱し、懇々と谷さんが言う言葉に、明里は謝るしかない。
 けれど。
 やっぱりあれは良くない、と思ったのだ。
 料理長は、どうして人を追いつけるようなことをしでかすのか。
「真中ちゃんの性格上、黙っていられないのはわかるけど、義憤はきちんと自分の手で片を付けられるようにしてから、やってよ」
 でも。
 谷さんの言葉は、そんな明里の気持ちを一蹴する。
 自分のやった行動のツケを、他人に押し付けているのでは、確かにそれは無責任以外の何物でもない。
 谷さんが言うのは、もっともなことなのだ。
「で? 追加したうどんは、料理長が作ってくれたわけ?」
「いえ、パートの人が出してくれました」
「ああ、水木(みずき)さんか。今度お礼言っておく」
 安部さんより年上の、五十代後半の谷さんはパートさんだけど、同じ職場で働く明里達の中で、もっとも長く働いている。
 ちなみに、谷さんが七年、明里は三年、そして管理者である安部さんはまだ一年だ。
 明里が働き出して三年で、管理者は二人変わった。
 明里が勤めている会社で七年勤めている人は、めったにいない。
 そんな中、七年この職場に勤めている谷さんは、歴代の管理者達を知っているし、職場以外の場所にいる人達のことも詳しい。
 だからこの学童では、一番力があるのだ。
「安部ちゃんは、私が勤め始めてから初めての二年目管理者で、あの平ちゃん相手に良くやってくれている。そんな安部ちゃんの負担を、それ以上重くしないようにするのが、私達の勤め!」
 そして、安部さんは、この職場初の「二年目管理者」である。
 「管理者」になったら、長く務めた人でも皆辞めていく。
 その一番の原因となっているのは、半月に一度ある「管理者会議」。
 別名、「平ちゃん劇場」で、延々と管理者達を罵倒するせいだ。
 『馬鹿らしくて、やってられない』とは、明里が働きだした年に退職した管理者の言葉だった。
 そんな中、安部さんは一年間を耐えきって、二年目に突入しようとしている。
「居宅(きょたく)(居宅介護支援)の西田(にしだ)さんは一番長いけど、この人は料理長の奥さんだから、例外中の例外だし」
 そこまで言って、谷さんは思い出したように明里に聞いた。
「そう言えば、安部ちゃんは?」
「子どものお迎えに行きました」
「早くない?」
「今日から早く帰ってくるんですよ、一部の子ども達は。もうすぐ春休みですから」
 そう。本日から、春休みへのカウントダウンが始まる。
 給食が終わった後に下校して来る子達がいるのだ。
「どこの小学校よ」
「三宮(さんのみや)小学校と、開田(かいだ)小学校です」
「また、悪童達ばかりの巣窟ばかりじゃない!」
 絶望した表情で、谷さんは言った。
「園庭で遊ばせますよ」
「ずっと!?」
「まさか。宿題もありますし、おやつの時は部屋に戻しますし、谷さん達がお迎えの時も、部屋に戻します。見る職員が私一人になってしまいますし」
「それでも、二時間は外で遊ばせることになるわ……」
「悪ガキ共に部屋で大人しくしとけ、と言うのが無理です!」
 きっぱりと明里は言い切った。
「頼もしい限りだけど、怒鳴り声だけは勘弁よ。平ちゃんに聞かれたら、また安部ちゃんが叱られるんだから!」
 しかし、谷さんは明里に釘を刺して来た。
 けれど、これには明里も言い分がある。
 なにせ、明里の職場は、「放課後児童クラブ」である。
 通称は、「学童」と言われるこの職場は、小学生の子ども達を預かる場所なのだ。
 よく知られているのは、学校の校庭やすぐ近くにある、その学校に通う保護者が経営する学童だけど、これは「父母会」が経営するものだ。
 それ以外にも、「社会福祉法人」と言われる会社が経営する学童もある。こちらは、よく「民営」と呼ばれている学童だ。
 明里の職場は、その「民営」の学童にあたる。 
 市内にある「民営」の学童は、三つあるけど、他の学童は、どちらかと言えば塾に近い形態らしく、それを嫌う子ども達は、明里が勤める学童に流れて来る。
 学校のすぐ近くに、「父母会」が経営する学童があるのに、「民営」の学童を選んで来る理由は様々だ。
 一番多いのは「父母会」経営の学童は小学校三年生までしか預かってくれないから、というものだが、中にはその「父母会」経営の学童を「追い出されたから」という理由の子もいるし、最初から、「学校の学童には通いづらい」という理由で、一年生から通う子達もいる。
「「クソガキ」レベルの子ども達を、安部さんと谷さんがお迎えから帰ってくるまで、総勢約三十人、私一人で見るとなると、『怒らない』なんて、無理ですよ。しかも、これ、法律違反ですからね。」
 法律では、支援員一人が見れる子どもの人数は、十名までだ。
「私達の雇い主は平ちゃんよ。雇い主の意向に沿うのは、当たり前のことじゃない?」
「それなら、給料をきっちり給料日に渡すのは、雇った者の義務だと思いません?」
 明里は、肩をすくめながら言った。
「……そういうところが、平ちゃんには可愛くないと思われるんだってば」
 谷さんは、あきれたように溜息を吐いた。
「まあ、真中ちゃん。経営者に目を付けられているんだから、進退決めていた方が良いわ。安部ちゃんに迷惑をかけないためにもね」
「谷さん……」
 谷さんの厳しい言葉に、明里は一瞬だけ目を見張った。
 だが、その瞬間に壁にかけてあった時計が目に留まる。
「谷さん、お迎えの時刻です!」
「何言っているの、まだ全然余裕……」
「四宮(しのみや)小学校も本日から早いです!」
 一瞬にして谷さんの顔が青くなる。
「それから、太田(おおた)小学校もです!」
 カウンターの机に置いてあるメモ用紙には、安部さんが送迎の順番と時刻を書いていたが、谷さんは見ていなかったらしい。
「い、行ってくるわ!」
「谷さん、待ってください! これ持って行かないと、今日乗る子どもがわかりません!」
 慌てて出て行こうとする谷さんに、明里はメモ用紙を差し出した。
「ありがとう、真中ちゃん!」
 ダッシュで飛び出して行く谷さんを見送って、明里は溜息を吐いた。
 別に谷さんが間違ったことを言っているとは思わない。
 多分、谷さんの言っていることは正しい。
 でも、谷さんが「平ちゃん」と呼ぶ理事長と、明里は合わない。
 彼の考え方は、明里には「甘やかし」にしか見えない。
 それも、タチの悪い甘やかし方だ。
 彼は、「子どもの望むようにやれ」と、常々言っていた。
 宿題にしても、遊びにしても、その他生活態度に対しても、「子どもが望むようにしてやれ」と明里達に言う。
 だが、「自由にさせろ」と言うならば、「規律」は必要になる。
 相反するようだけど、「自由」と「自分勝手」との違いは、「責任」というものが果たせるのか、ということになる。
 でも、それは明里の場合だって同じだった。 
 明里の考えや態度を見て、経営者である、平八郎理事長は明里の上司である安部さんを責める。
 常々、明里を退職に追い込むように責めているらしいが、安部さんは一言もその手のことを明里には言わない。
 経営者の怒りが自分の方に来るのであれば良いが、その怒りを安部さんが受けるのであれば、明里は考えなければならないのだ。
 そうして、そのことをあの経営者は十分わかっている。
 あわよくば、安部さんと明里を仲違いさせようとしているのは、一目瞭然だ。
 だが、それは安部さんのおかげで、阻止されている。
 だから。谷さんの言う通り、経営者を刺激しないようにするのが、今の明里が優先すべきことなのだ。
 明里はもう一度溜息を吐くと、カウンターに置いてあるパソコンの前に座った。
 今はともかく、目の前の仕事に集中することにした。
 新学年度に向けて、準備しなければならない書類は山ほどあるのだ。
 この職場でパソコンを使えるのは、明里と安部さんだか、安部さんはあまりパソコンが得意ではない。
 少しでも安部さんの負担を減らすためにもできることはちゃんとやっておきたかった。
                ★
 そして、次の日である。
 明里は、食堂でまたしても無言になっていた。
 明里が持っている器には、うどんが入っている。
 だが、そのうどんはくったくたに茹でられていたのだ。
「どうしたの? 真中さん」
 向かい側の席に座った安部さんが、話しかけて来る。
 明里は一瞬どうしようかと思ったが、昨日の谷さんの言葉を思い出した。
『真中ちゃんに負担をかけないのが、私達の役目なんだから!』
「何でもないです」
 明里は首を振った。
 とりあえず、今は言うべきではない、と思ったのだ。
 職場に帰ってからでも言うことはできる。
「俺の作ったメシは不味いのか?」
 と、その時だった。
 料理長が明里達のいるテーブルの近くで、どでかい声でそう叫んだ。
「料理長」
「別にいいぞ、無理に食べなくてもなあ!」
 料理長は心なしか視線だけは、周りを見回すように言った。
 どうやら、昨日明里が介護の新人さんを庇ったのが気に食わないらしい。
 料理長の料理は本当に美味しいのに、どうして彼は、こんなふうに人を攻撃してくるのか。
「料理長、炒飯追加しても良いですか?」
 そんなことを考えながら明里は料理長にそう言った。
 やっぱり猛者だね、と学童に戻った時に、安部さんに言われてしまった。
               ★
「茹で過ぎたうどんを出されたの?」
 尋ねて来る安部さんに、明里はこくんと頷いた。
 明里達の勤める学童は、食堂がある老人ホームの棟とは少し離れて建っていて、ここでならば、安心して話せるのだ。
「昨日から二回目です」
「そう……」
「理事長が、何か料理長に言ったのかもね」
 安部さんは、溜息を吐いた。
「とりあえず、明日からは子ども達が給食なしで帰って来るし、春休みにも入るから、しばらく、離れていましょう」
 どのみち、子ども達が朝から来る春休みの間は、食堂には行けない。
 確かに、良い冷却期間にはなるだろう。
「まあ、その場しのぎだけどね」
「料理長は、何がしたいんでしょうか?」
 明里は、昨日から考えていたことを口にした。
 彼は、自分で自分の仕事を汚している。
 明里は、そんなことはできない。
 絶対に、したくない。
 だから。料理長が何をしようとしているのか、全然わからなかった。
「『俺が偉いんだぞ!』ってことを、示したいのでしょうね。これは、平八郎先生にも言えることだけど」
「そうすることで、何がしたいんですかね?」
「さあねえ。自尊心が満足するんじゃない? 私には、全然わからないけどね」
 安部さんの言葉に、明里は小さく笑う。
「まあ、今はそんなことより、春休みを無事に過ごせるように、意識を集中させましょう」
 そうして、安部さんは話を打ち切るように、明里に言った。
 もっともなことだったので、明里は、「はい」と、安部さんの言葉に頷いた。
         ★
 ただ、まあそうは言っても。腹は、立つのだ。
 明里は別に、自分が偉いとは思っていない。
 でも、不当なことをされているのに、黙って耐えるのは理不尽だった。
 食堂は、無料ではない。
 ちゃんと給料から差し引かれている。
 なのに、どうして茹で過ぎたうどんを食べなければならないのか。
 明里は、上手くない物には、一円たりとも払いたくない。
 けれど、実際の問題として、食堂には「行くべきである」という雰囲気があの会社にはあるのだ。
 明里が勤め始めた頃には、食堂には何人もの人がいた。
 料理長を始めとして、和食が専門の人、洋食が専門の人、中華料理専門の人。
 でも、あれから三年経って。
 あの食堂に残っているのは、料理長とパートの人と、去年入社した栄養士の若い女の子二人だけだ。
 「料理人」と言われた人達は、みんな辞めてしまったのだ。
 その原因は、料理長の人柄と、平八郎理事長のパワハラだった。
 明里がご飯を食べている時でも、料理長が他の人を怒鳴りつける声が聞こえることがあったし、理事長が、料理人を呼んで、色々偉そうに言っている姿を見かけた時もある。……料理長と理事長は、自らこの状況を作り上げてしまったのだ。
 それでも、彼らは自分が優位に立っていると思っている。
 そこまで考えて、明里は溜息を吐いた。
 何故に、家に帰ってまで、料理長や理事長のことを考えなければならないのか。
「……ご飯、作ろう」
 気分を変えるように、明里は呟いた。
 暗い一人暮らしの部屋で、電気も付けずにいたならば、気持ちはどんどん暗くなる。
 真っ暗な部屋にスイッチを入れて、電気を付ける。
 そのまま、台所へと歩いて行く。
 そうして、何を作ろうか、と考えた。
 ふと、うどんを作ろうか、と思った。
 こんな気分になるのも、不味いうどんを出されたのからだ。ならば、自分でうどんを作ってしまえばいい。 
 前に、学童に通う二年生の壮馬(そうま)が、学校でうどんを作ったと言っていた。
『でも、難しくなかったよ。小麦粉を入れてね、水にお塩を少し入れて、それを入れて捏ねて、手に付かなくなったら、完成なんだ!』
 すごいな、と感心する明里に、壮馬は得意満面の笑顔でそう言った。
 その顔を思い出しながら、明里はスマホを検索して、うどんの作り方を探した。
 その後、台所に行って、ボウルに強力粉を大さじ5杯入れて、次に軽量カップに一杯の水と塩をひとつまみ入れる。
 その水を少しずつボウルに入れては、小麦粉を捏ねていく。
 途中、小麦粉が手に付くが、それでも水を入れて、黙々と捏ねていった。
 手に付かなくなったところで、一つにまとめて、細長く切らないといけないな、と思った。
 パンを作る時も、伸ばしたりするときは、まな板に小麦粉で打ち粉をする。
 となると、打ち粉はした方が良いだろうな、と考えて、明里はまな板に小麦粉を薄く伸ばした。
 その上に、まとめた生地を置き、麺棒がないことを思い出し、とりあえず、缶ビールで伸ばすことにする。
 缶ビールで伸ばし始めたら、缶に生地が付いたので、慌てて、生地にも打ち粉をする。適度に細長くなってきたので、それを包丁で細く切った。
 包丁にも生地が付いてきて、粉を付けて切った。
「全然簡単じゃないじゃん……」
 明里は騙された気分になったが、切った生地を、またボウルの中に入れた。念のため、切った物をボウルに入れては、強力粉を上から少しふりかける。そうして、このうどんを何で食べようか、と考えた。
 ネギは冷凍のものがある。天かすもまだある。
 とすれば、やはり茹でて温かい汁で食べるのが良いだろう。
 そう思って、明里は戸棚から鍋を出した。
 そこに水を入れて、コンロにかける。湯が沸くまでは、後片づけをするべしと、朝そのままにしていた食器と一緒に使ったまな板や包丁を洗った。
 そうこうしているうちに、お湯が沸いてきたので、いよいようどん投入である。うどんの茹で時間は十分前後である。
 とすれば、それを目安に一度味見をして、茹で続けるか、そこで止めるかを判断することにする。
「投入~!」と声をかけて、なべに打った麺を入れる。
 ちゃぼん、と鍋にうどんが入ったのを確認して、明里はコンロの上に常時置いているフライパンにめんつゆを入れた。
 そこに水を入れて、火を入れる。
 そうして、一回うどんの生地を入れていたボウルを水で軽く洗い、水を注ぐ。冷凍庫からはネギを、乾物等を入れているカラーボックスから天かすを出した。
 そうこうしているうちに、まずはフライパンの方がぐらぐら言い出したので、慌てて火を止めた。鍋の方もぐらぐらしてきたので、火を弱め、一本うどんを取って、食べてみる。
「うん、これだ!」
 とてもモチモチしていて、弾力があって、美味しかった。
 明里は、鍋の火を止めると、うどんを菜箸で取って、ボウルの中に入れた。
 それらを、菜箸を使って、ボウルのなかでぐるぐるとかき混ぜる。
 麺類は流水で締めた方が良いと聞いたこともあったから、水道の蛇口を捻って、ボウルに水を入れつつ、うどんを洗う。
 流しにうどんが流れないように気をつけながら、明里はうどんを今度はどんぶりに取った。
 その上に、ねぎと天かすを置いて、つゆをかける。
 もう、匂いだけでお腹いっぱいになりそうである。
「いただきます!」
 テーブルの前に座った明里は、ぱちん!と両手を合わせた。
 早速、食べ始めている。確かに、麺の太さは大小ある。
 太いのは「すいとんかっ!」と突っ込みたくなる物もある。 
 けれど、美味しかった。
 本当に、美味しかった。
 料理長が出したうどんよりも、はるかにこちらの方が美味しい。
 うどんはうちたてが美味しいというから、そのせいもあるかもしれない。
 でも、一気にうどんを食べて、明里は思った。
 食堂でご飯を食べるのは嫌だと。
 では、どうすれば良い? 
 明里が「食堂で食べたくない」という意地を通せば、絶対に安部さんに余波が行く。
 ならば、一番良い方法は。つるつると長いうどんを見て、ふと、気が付く。
 うどんは、長い。
 短かった生地を、伸ばして作るのが「うどん」だ。それと同じことが、できはしないか?
「あ、そっか」
 うどんを見て、明里は小さく呟いた。
               ★
「食堂に行かない期間を延ばす?」
 明里の言葉に、安部さんは目を見開いた。
 明里は、こくんと頷いた。
「四月初めは、一年生は早く帰ってくるし、家庭訪問なんかの行事もあるから、けっこう早めにみんな帰って来ます。食堂に行っていたら、時間がなくなってしまうし、それが理由として使えませんか?上手く行けば、ゴールデンウィーク明けぐらいまで伸ばせます」
「でも、真中ちゃん。結局これって、ただ猶予期間を先伸ばしただけになるわよ」
 明里の案に、安部さんは現実的に突っ込んで来る。
 さすが、初の二年目管理者だ。
「まあ、そうですけど。でも二週間では変わりませんけど、一か月近く間が空いたら、何か変わるかもしれないじゃないですか」
「たかだか一か月であの人達が変わるんなら、あんなに退職者が出るはずないじゃない」
「まあ、それはそうですね」
 その言葉の的確さに、明里は素直に頷いた。
「それに、理事長が『食堂に来い』と言われたら、私達は拒否することは難しいわよ?」
 その指摘も、もっともなことだった。
「でも、私は美味しくない物を、お金を使ってまで、食べたくありません」
 けれど、明里はきっぱりと言い切った。
 体力勝負の仕事をしている明里にとって、「食事」はもっとも大切なキーワードなのだ。
 明里にとっては、毎日食べる食事が「不味い」のは、耐えられない。
 明里の母は、とても料理上手な人で、学生時代は、嫌な事や落ち込む事がった時、母の美味しい料理が救いだったのだ。
 そうして、それは。今でも、変わっていない。美味しいものを食べれば、嫌なことは吹き飛んで行く。
「……まあ、やってみましょうか」
 溜息を吐くように、安部さんは言った。
「子ども達が早く帰って来るのは事実だし、ゆっくりご飯を食べられないのは、私も嫌だしね。『食堂に来い』と言われるまでは、考えなくても良いかもね」
「安部さん!」
「ただし、何か言われたら、すぐ食堂に行くことにするわよ? それは、言っておくわ」
「わかりました」
 安部さんの言うことは、もっともだった。
 たぶん、そこがぎりぎりの部分だ。
 うどんだって、伸ばし過ぎれば千切れてしまう。
 今できることは、時間を稼ぐこと。
 それ以上のことは、また次に何か言われたりされたりした時に考えるべきなのだろう。
「んじゃ、安部さん。早速、今日のお昼はうどんにしましょうか?」
 そう言って、明里はごそごそとランチバックの中から、タッパーと小さめのペットボトルを取り出した。
「これは……」
「ちょっと季節は早いですけど、冷やしうどんですよ。湯がいたうどんを油に絡めて、冷凍しておくんです。つゆも冷凍しておけば、昼頃にはちょうど溶けているそうです」
 そうして、明里はうどんのタッパーと、つゆの入ったペットボトルを一つずつ、安部さんに手渡した。
「あら、私の分もあるの?」
「はい。本当は、私が作ったうどんを持って来ようかなと思ったんですが、やっぱり打ち立てじゃないと、美味しくなくて」
 念のため、朝御飯に食べてみたのだが、うどんと言うよりは、すいとんだった。
「うどん作っている人ってすごいですね。うどんって、本当に捏ね方次第でも触感が変わるし、細く切るのだって、すごく難しかったです」
 明里がしみじと実感を込めて言うと、
「……そうね。先に食べちゃいましょうか」
 安部さんはいたずらっこのように笑って、そう言った。
「えっ? いいんですか?」
「谷さんの分、ないでしょう?」
「あ、そう言えばそうでしたっ」
 パートの谷さんは、いつもだったら昼の二時過ぎに出勤してくるから、谷さんの分までは用意していなかったのだ。
 だけど、今日から子ども達は給食なしで帰って来るから、あと一時間もしたら、谷さんも出勤してくる。
「急いで食べましょう!」
「あ、はいっ」
 谷さんごめんなさい、と心の中で謝りながら、明里は安部さんと一緒にうどんを食べ始めた。
 そうして、やっぱり思った。
 うどんが美味しい!と。


#創作大賞2023 #お仕事小説部門

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