憂鬱な放課後の幸福な食卓~学童保育の事件簿~8 ブラックティー
ブラックティー
ダージリン、アッサム、セイロン、ルワンダ、ケニア、タンザニア等、摘採した茶葉をそのまま楽しむもので、ミルクや砂糖を入れない紅茶のこと。
★
七月に入り、梅雨が明けたとたん、日差しは夏のものになった。
「熱い……」
この日差しは、「暑い」と言うよりは、「熱い」。
本日は土曜日だが、明里達の学童は、開所しているので、明里は出勤していた。
夏休み直前の土曜日の今日も、朝から日差しは容赦なしの強さで、来週から始まる夏休みのことを考えると、明里は頭が痛かった。
通常時であれば、午前十一時に正社員の職員は出勤して、午後八時まで働いている。
けれど、夏休み期間中は、子ども達は学校か休みであるゆえに、朝から来る。
早い子達などは、午前七時半過ぎには来る時もある。
それで一人が午前七時半に出勤して、午後四時半までいる。
もう一人は、午前十一時までに出勤して、夜の八時までいることになる。
そして、その合間を縫って、午前九時から午後五時まで出勤するのが、パートの谷さんなのだ。
さらに、夏休みの利用人数は、各段に増える。
通常であれば三十人前後ぐらいだけど、夏休みは四十人を超える。
学校がある時はあまり利用しない子や、夏休みだけ利用する子が来るようになるからだ。
長時間、暑い最中大人数の子ども達が、同じ部屋で過ごす。
怪我をさせず、ストレスを溜めさせず、でも楽しく過ごせさせなければならない。
毎年、思う。
どんな無理ゲーよ、と。
だが、やらなければならないのだ。
実際にできるかどうかは別として、「そのための努力」は、やはりする必要がある。
「あ、真中ちゃん来た!」
明里が駐車場から学童まで、汗をかきながら出勤すると、子ども達が入口にわらわらと寄ってくる。
「真中ちゃん来たから怖い話見て良いよね!」
えっ?と思って安部さんを見ると、安部さんは苦笑していた。
「安部ちゃんがね、真中ちゃんが来たら、怖い話見て良いって言ったの!」
靴を脱ぐ明里に向かって、壮馬が目をキラキラさせて言う。
「夏休みまであとちょっとなんだから、まだ見なくていいんじゃない?」
「やだ、安部ちゃんは真中ちゃんが来たから見て良いって言ったもん!」
「朝から見たいって、みんなが言うのよ」
「まあ、確かに朝の方が、霊が集まって来やすいから避けた方が懸命ですけど、昼間だって、見過ぎたら、集まって来やすいから、お昼前の一時間ぐらいにしておきますか?」
夏休みの「遊び」の一つとして、一番即効性があるのは、「怖い話」だ。
何せ、小学生の子どもは「怖い話」が大好だから、これは本当に夏休みの学童には持ってこいの活動だ。
南さんはそのことを心得ているから、毎年夏休みに放送される心霊番組を、DVDに焼いてくれている。
けれど、この「怖い話」には、弊害もあるのだ。
だがこうなってしまった以上、子ども達を止めるのは、無理である。
「駄目よ」と言ったところで、聞きはしない。
カウンタースペースの棚にバッグを置いて振り返ると、苦笑した安部さんと涙目になっている子ども達がいた。
「いつも思うんだけど、真中ちゃん。本気で言っているわよね、それ」
「でも、事実ですから」
受け売りではあるが、それは事実だと明里は思っていた。
もちろん、こう言うと子ども達が怖がって見なくなる時もあるから、それを狙って言っている部分もある。
「真中ちゃんは意地悪だっ。俺は見るからな‼」
だが、だいたいにおいては、その効果は期待できない。
火に油、と言うヤツである。
「はいはい。だったら、お昼ご飯までね」
「私、怖い映像のヤツがいい!」
土曜日に来るメンバーでは最年長の四年生の、ぎりぎりまでの短いショートカットの真由が、明里の声と重なるように言った。
「動画サイトに投稿されたものを特集したものだね。ガセばっかりだけど良いの?」
明里は仕事事用スペースにある棚の扉を開けて、DVDを取り出した。「どうして偽物だってわかるんだよ!」
取り出したDVDを持って、テレビコーナーに向かう明里に、壮馬が言った。
「見ればわかるでしょ」
往々にして、「恐怖映像」と名売っている者は、その国の「恐怖」のお国柄が出ている。
西洋の「怖い映像」は、「怪物系」が多い。
東洋のものは、「何かいる」ことを感じさせるものが多い。
文化の違いがあって面白いな、とは思うが、子ども達はそうはいかない。「真中ちゃん、どこ行くの⁉」
テレビの画面に番組のオープニングが流れ始めたとたん、子ども達が見やすいようにとテレビから遠ざかろうとした明里に、子ども達が声をかけてくる。
「ここにいて!」
真由(まゆ)が、がしっと明里の腕にすがりつく。
「どこにも行かんでよ、真中ちゃん!」
反対側には、壮馬がすがりついてくる。
「私は、魔除けですか」
そんな様子を見て、笑っている安部さんに、明里は助けを求める視線を向けるが、
「まあ、いいじゃない。子ども達の恐怖心が弱まれば、『怖い話を見せないでください』って、保護者の方々にも言われ難くなるわ」
笑いながら安部さんは言った。「心霊番組」の一番の弊害は、怖くなった子どもが、家に帰ってその「怖さ」を引きづることなのだ。
子ども達に囲まれた明里は、テレビのど真ん前に座って、子ども達と一緒に「恐怖映像」を見ることになった。
「怖ければ見なきゃ良いのに」と明里は思うのだが、「怖いけど見たい」と言うのが、子どもの本音なのだろう。
『だからね、怖い話を時々ネットで探しているの。夜だと怖いから、朝に探すのよ』
不意に。
臨時教員を続けていた頃に「彼女」が言っていた言葉を思い出した。
教員の激務に耐えきれず、休職を経て退職をして行った彼女のことを、最近思い出すことが多くなった。
明里の「霊」の知識も、「彼女」から教えてもらったことだ。
美里のことがあるから、どうしても重ねてしまうのかもしれない。
自分の子どもがいるのに、「家族」を捨てようとする美里と。
あれだけ熱心に仕事をしていた「彼女」をなかったようにした「教員」という仕事に、「絶望」を感じた自分と。
駄目だな、と思う。
美里と自分では立場も置かれている状況も違うのに、どうしても「同じように」と考えてしまう。
「美里」は、「美里」だ。
同一視してはいけない。
「真中ちゃん、怖くないの⁉」
そんなことを考えていたら、早速子ども達から悲鳴が上がる。
「何回も見ているのに、飽きないね」
やれやれと思いながらも、明里はテレビの画面を見た。
人気がないキッチンの扉が、少しずつ開いていく映像が映っている。
「これ、本当に霊が動かしているのかな?」
「わかんないけど、たいていの霊って、物を動かす力はあんまりないんだって。生きている人間と違って、物を動かすことって、すごく『力』を必要とするから、ポルタ―ガイストってのは、有り得ないらしいよ」
「いつも思うんだけど、どうして真中ちゃんは幽霊についてそんなに詳しいの?」
扉が少しずつ開いていく画像を見ながら、「夢で言いたいこと伝えた方が楽なんじゃないかなー」と思っていた明里に、子どもがそんなことを聞いてくる。
「教えてくれた人がいたのよ」
かつての同僚の姿を思い描きながら、明里がそう答えてくれた時だった。ズボンのポケットに入ったスマホが、着信を知らせた。
バイブにしてあるので、音が響くことはない。
基本的に、明里は子ども達がいる時は、電話には出ないようにしている。
理由は簡単で、勤務中だからだ。
だが、しかし。
バイブの音は、なかなか止まなかった。
「真中ちゃん、私がいるから、電話に出て来て」
カウンターで仕事をしていた安部さんにもバイブの音は聞こえているらしく、明里の傍に近寄りながらそう言ってくれた。
「でも……」
「真中ちゃんが勤務中だってこと、知らない相手なんじゃない?だったら一度電話に出て、断った方が良いわよ」
「わかりました」
明里は安部さんの言葉に頷くと、安部さんと入れ違いで、二階へと上がった。
これだけでも数分経過しているのに、スマホは着信を知らせ続けている。
ポケットからスマホを出して画面を見ると、そこに出ている相手の番号は、見覚えのないものだった。
『いい加減にしてくれませんか!』
通話のボタンを押すと、明里が何か言い出す前に、大きな声で叫ばれた。『居留守なんですか、良い度胸ですね!』
『……どちら様ですか?』
明里は偉そうに言い放つ男性の言葉の後で、そう尋ねた。
『とぼけるんですか⁉』
「申し訳ありませんが、勤務中です。もしご用件をお話されない場合は、これで失礼させてもらいます」
とぼけるも何も、声の主に心当たりがない。
間違い電話かも知れないと思い、明里は通話を切ろうとした。
『草薙(くさなぎ)雄一郎(ゆういちろう)です』
そんな明里の反応に、さすがに相手も慌てたようだった。
草薙、という姓には聞き覚えがあった。
言わすもがな、美里の現姓だ。
『美里はどこにいるんですか⁉』
「美里がどうしたんですか?」
次に怒りを含んだ声を、再度発しようとしたほとんど会ったことがない義理の弟に、明里はそう問い返した。
『いなくなったんですよ!』
「何でですか?」
『あなたは、自分の妹が家族を放り出していることに、何も思わないんですか⁉子どもすら放っているんてすよ!なのに、あなたの母親もあなたも、手伝いにすら来ない‼』
「どうしてですか?」
けれど、さらに質問で返した明里の言葉に、義弟は言葉を詰まらせた。
「確かに、美里は自分の子どもを放り出して家を出たのかもしれません。ですが、あなたの子でもありますよね?私達は、その子に対して『世話』をする義務はないですよ」
明里達家族は、美里が生んだ甥っ子には、本当にまだ小さい頃、数回しか会っていない。
美里が住む東京と地元が離れているというせいもあったかもしれないが、そこに義弟達の思惑があったことは、薄々感じていた。
『今、和孝をそちらに向かわせています!』
「どちらにですか?」
本気で、明里はそう尋ねた。
「そちらに」と言われても、今は仕事中である。
「私は勤務中です」
『それは私もそうです!美里がいなくなって、和孝の面倒を見る人がいないんです‼』
「お母さんと同居されていますよね?」
『その母の手に負えないから、私がわざわざここまで連れて来たんですよ!私もこれから取引先と打ち合わせなんですっっっっ』
知らんがな、と明里は正直思ったが、東京から来た小学三年生の男の子を、他県の慣れない場所に放置するわけにはいかない。
「和孝君は、どこに向かっているんですか? とりあえず、私の職場で預かります。利用料も頂きますが、かまいませんね?」
『詳しいことは、また連絡します』
けれど、義弟はガッチャンと通話を切った。
おいおいおい、と突っ込みたかったが、美里は家にはいない。甥を―和孝を送り付ければ、美里もほだされると、義弟は思ったのか。
「思ったんだろうな……」
通話を切りながら、明里は呟いた。
美里は、本日も自動車学校に出かけている。
卒検だと、明里には言っていた。
その後のことはどうするのだろう、と思ってはいるが、恐らく、美里の頭の中には次のプランがあるのだろうなとは感じている。
だがその中に、「家族の元に戻る」というプランは、恐らくない。
そう決めたからこそ、美里は家を出たのだ。
しかし、とりあえず、今は当座の対処である。明里はため息を吐き、下に降りる。
「あ、真中ちゃん」
出入り口に立っていた安部さんが、振り返った。
その手には銀色のボウルを持っている。
「今日は早めに、栄養士の人がおやつを持って来てくれたわよ」
安部さんが苦笑しながら見せてくれた中身(おやつ)は。子ども達に大不評の、「ストラチ」だった。
「ミキサーと卵、持って来て良いですか?」
これも、おいおいおい、と突っ込みながら明里は安部さんに尋ねるのだった。
★
「遅せえぞ、ババア!」
車から降りて、アパートの部屋へと駆け足で近づいて来た明里に、甥はー和孝は、そう叫んだ。
その口調の悪さに、酷いな、と思う。
「悪かったわね、オジサン」
まあ、そうは言っても。
和孝を送って来たであろう、タクシーの運転手さんのことを考えると、「んじゃ、自分でどうにかしなさい」とも言えないし、現実的ではない。「オジサン⁉」
「私が『おばあさん』と言われる年齢になる頃は、和孝君は『オジサン』と言われる年齢だからね。私が『ババア』なら、和孝君は『オジサン』じゃん」
ほぼ初対面の甥御を相手にどうかなとも一瞬思ったが、毒を制すには、同じく「毒」が良いのだ。
「すいません、お待たせしました」
そして、甥御がその毒で衝撃を受けている間に、明里は和孝を送って来てくれたであろう、初老のタクシー運転手に頭を下げた。
「いえ、すぐに来てくださって助かりました」
「支払いはどうなっていますか?」
「あ、それは大丈夫です。カードで支払ってもらいましたから」
そうして、カードを差し出される。
子どもにクレジットカードか、と明里は思いながらも、運転手からカードと領収書を受け取った。
「勝手に触るなよ! 泥棒だぞ‼」
「証拠は?」
明里がクレジットカードを受け取るのを見て、和孝がすかさず叫んだが、明里は瞬時にそう返した。
「他人を泥棒扱いするなら、それなりの根拠が必要よ。勝手な思い込みや決め付けで言うべき言葉ではないわよ、オジサン」
とりあえず、和孝のようなタイプの子を毎日相手しているのだ。
その対処方法スキルは、その辺の大人とは違う。
呆気に取られている運転手さんに、「すいません、少しだけ待ってもらえますか」と声をかけると、明里はバタバタと部屋に上がり、流しの下からミキサーを出して、冷蔵庫から卵を取り出した。
そうして、すぐに部屋の外へと出る。
「ありがとうございました」
明里が部屋からすぐに出て来て、お礼を言うと、タクシーの運転手さんは、あからさまに、ほっとした表情になった。
「それでは、私はこれで」
「はい。ありがとうございました」
明里の言葉に頷くと、タクシーの運転手さんは足早に立ち去って行く。
まあ、クソガキとのやり取りなど、普通の「大人」ならば、聞くに堪えないだろう。
「んじゃ、行くわよ」
そんなことを思いながら、明里は和孝を振り返える。
「……ママは?」
不意に。
小さい声で、和孝は尋ねた。
「ここには、いないわ」
だが、明里は短く答えた。
ほとんど交流のない義弟が、どうして自分の携帯番号と住所を知っているのか。
もしかしたら、探偵を使ったのかもしれない。
そして、ここに美里がいることも、把握しているのかもしれない。
けれど。
今、本当に美里はいないのだ。
そう。
美里は今、自動車学校に行っている。
「俺は、ここで待っている」
「それは、駄目。私は夜まで帰って来ないから、一緒に来てもらわなければならないの。お父さんにもそう言ってあるしね」
和孝の言葉に、明里は首を振った。
「いやだ、ここにいる!」
「いても良いけど、ずっと外で、夜まで一人で待っているの?部屋の中には入れないわよ。だって、私の家だもの」
素で。
明里は、聞いた。
だがどうも和孝にとって、思ってもいない言葉だったらしい。
「入れろよ、このクソババア!」
「嫌よ。私の家だから、私が決めるわ。それの何が行けないの、オジサン」
たまらず、和孝はそう叫んだが。
明里の間髪を入れずの言葉に、茫然とするのだった。
★
学童に戻ると、子ども達はお弁当を食べていた。
がらっと戸を開けると、安部さんと子ども達が次々に声をかけてくれた。
「ただいま戻りました」
「お帰り、真中ちゃん」
「あ、おかえりー」
「そちらの子が、甥御さん?」
安部さんは立ち上がると、入口に近寄って来てくれた。
「あ、はい。和孝君、安部さんだよ」
明里は安部さんの言葉に頷くと、和孝にそう声をかけた。
「汚ねえな、ここ」
だけど。
和孝は安部さんに挨拶もせずに、そう言い放った。
途端に、お昼ご飯を食べていた子ども達の空気が、一斉に凍り付く。
「そう? 和孝君は新しいお家しか見たことないのかな」
安部さんはそう言って流してくれるが、子ども達はそうはいかない。
ピシッと場が凍り付くのを明里は感じた。
自分達もボロだ汚いだ古いだと好き放題言っているくせに、赤の他人が言うは許せないらしい。
なるほどなと明里は思った。
これで明里がいなかったら話は違ったのかもしれないが、明里は和孝にとって「母親の身内」だ。
「自分の下にいる存在」、と和孝は捉えているのだろう。
つまり母親を軽く扱う環境にいた、と言うことだ。
けれど、しっぺ返しはすぐに来た。
「んじゃ、来なければ良かったのに」
二年生の由紀が、無邪気さ全開で言った。
彼女の発言は、裏表がないだけに、時に強烈な刃となる。
和孝が言葉に詰まった瞬間、
「変なの」
と更に追い打ちをかけてくれた。
「安部さん、すいませんが二階に行って良いでしょうか?」
「あ、お菓子のリメイク?」
「はい。ついでにしようと思って」
「そう、お願いね」
明里の言葉に、安部さんは笑顔で頷いた。
だが、子ども達の視線は、冷たいままだった。
やれやれと思いながら、明里は階段を上がって二階へと行く。
「メシ、腹減った!」
「コンビニで買った物があるでしょう。手を洗って食べなさい」
明里はそう言うと、自分が先に手を洗った。
そうして、持っていたバックからミキサーを取り出す。
「何、それ」
「ミキサー。ちょっと作りたい物があってね」
明里は冷蔵庫にしまったストラチが入ったボウルを取り出すと、戸棚にしまっている計量カップも取り出し、ストラチの量を計りながら、耐熱皿に使っている大きめの丼ぶりの器に移し替えた。
丼には、計量カップ二杯でいっぱいになってしまったので、そのまま電子レンジで一分温める。
それから、一度ミキサーに温めたストラチを入れて、もう一度計量カップでストラチを計りながら、丼に移し入れる。
電子レンジで温めている間に、三個の卵をミキサーに割入れた。
そのまま、ミキサーに蓋をしてスイッチを押した。
「何してるの?」
それを見て、和孝が近寄って来る。
「ちょっと、お菓子を作り変えているの。皆が食べやすいようにと思ってね」
「何でそんなめんどくさいことしてんだよ。買えばいいじゃん」
「そうもいかないこともあるのよ」
ご飯が十分攪拌(かくはん)したことを確認しながら、明里はそう答えた。「ばっかじゃないの。それに、手作りより買った方が上手いし!」
「そう?和孝君の母さんの料理美味しいよ」
美里が来てから、ずっとお弁当と食事は作ってもらっているが、とても美味しい。(たまにお弁当は自分で作る時もある。
おでんのお弁当は自分で作った)この学童のおやつのアレンジも考えてくれるから、助かっている。
「んにゃ。不味いね。超不味い!」
だが。
和孝は、何のためらいもなく、そう言い捨てた。
「なら、ちょうど良かったじゃない。買ったお弁当なら、美味しく食べられるでしょ」
ご飯が十分攪拌したことを確認した明里は、そう言って、ミキサーのスイッチから手を放して、流しの下の戸棚を開いた。そこからフライパンを取り出し、再度冷蔵庫を開けて、砂糖を取り出す。
砂糖だけは、明里が切れないように提供しているのだ。
フライパンに砂糖大匙スプーン十杯と水を同じく大匙二杯入れて、コンロに置いた。
しばらくすると、砂糖が飴色へと変わって行くので、そこに追加の水を大匙二杯入れる。
この時、とても良い匂いがする。
だけど、この香にうっとりとして、カラメルを焦がしてしまったら、そこは悲劇になるため、十分に注意しながらフライパンを回した。
そして、それらが固まる前に、もう一つの丼に、そのカラメル液を流し入れた。
何せ、子ども達は「おやつの失敗」に容赦がない。
もう、ほんとーに、「勘弁してください」と百戦錬磨を自負している明里ですら、そう思うぐらいの反応をしてくださるのだ。
「腹減った!」
次に電子レンジに入れていた、二回目のストラチを出そうとしていた時、和孝が苛立ったように言った。
「食べればいいじゃない。早くしないと、冷たくなってしまうよ。せっかくコンビニで温めてもらったんだから」
そう答えている間にも、明里は電子レンジから出したストラチをミキサーに入れて、卵を三個割入れる。
ミキサーのスイッチを押して、ご飯が十分に攪拌したことを確認した後、またフライパンでカラメルソースを作った。
ストラチを入れていた丼にカラメルソースを流し入れて、フライパンを手早く洗い、水を張った。
それをコンロに置いて、水を沸騰させる。
プリン液が入った丼にラップをかけて、そっと沸騰している水が入ったフライパンに入れる。
そして、もう一個の丼にも同じようにラップをかけた。
本当はもう一個作りたいが、丼がない。
二個が限界か、と明里はため息を吐いた。
明里達ができることには、どうしても限界がある。
安部さんにも、自分達の生活に負担をかける提供は絶対しないように言われている。
それは、もっともなことだと明里も思う。
かつての同僚は、「気力」をたくさん使い過ぎて、自分が病気になってしまった。
「気力」も、「お金」も、使い過ぎてはいけないのだ。
「腹減った!」
そんな風に考えていた明里に、絶叫と言って良い声が届く。
「早く食べれば?」
明里は自分の荷物から出して来たお弁当を食べるべく、トイレの前の手洗い所に行き、手早く手を洗おうと思ったが、ついでにトイレに入ることにした。
そして、あまりしたくなかったが、ポケットに入れたICレコーダーに電源を入れる。
トイレから出ると、和孝が出入り口真ん前で明里を待っていた。
「腹減った‼」
そして、明里に向かってそう叫ぶ。
「手を洗いなよ」
だけど、明里は冷静にそう言った。
さっさと手を洗って、食べれば良いのだ。
そう思って、自分も二階に持って来たお弁当を食べるべく、おやつ用にいつも使っている机に自分用のお弁当を置く。
和孝には、明里のその態度が思ってもいないものだったらしい。
呆然とした表情で明里を見つめている。
「食べないの?」
これまた素で。
明里は、和孝に聞いた。
「自分の食べるお弁当ぐらい、自分で用意できるでしょ? したことないの?」
「作ったことないもん!」
「え? 手を洗って、袋から出して、机の上に置くだけだよ」
小さい子もできるよ、明里は答える
「できない、できない、できないっっっ!」
だが和孝はひっくり返ると、手足をバタバタさせてそう叫ぶ。
もうこうなると、意地になっているだけだろうな、と明里は思いながら、お弁当を食べることにした。
こういう時、子どもは何を言っても無駄である。
落ち着くまで、待っているのが一番だ。
泣くにしても喚くにしても、相手の反応を期待するから、そうするのだ。
反応がないことで、子どもは我に返るし、そもそも泣くことも喚くことも、パワーがいる。
エネルギーが切れたら、静かになるのは人間だって同じだ。
明里は美里が作ってくれたお弁当をランチボックスから取り出すと机の上に広げた。今日のお弁当はサンドイッチだ。
子ども達が朝から来る日は、お弁当を電子レンジで温めることはしない。
電子レンジは、あくまでも「活動」に使う物、としているためだ。
でも、それは建て前で、子ども達全員分のお弁当を温めるには、時間も電気代も膨大に使ってしまうためだった。
子どもに「駄目だ」と言っている以上、明里達職員が使うわけにもいかない。
それを美里に伝えると、温めなくても美味しい物を作ってくれたのだ。
また美里は、保冷の機能があるお弁当箱やスープジャーも、いつの間にか買ってきていた。
こんなお弁当を、自分の家族にも作っていたはずなのだ。
そんなことを思いながら、明里はサンドイッチを口に運び、水筒に入ったアイスティーを飲んだ。
正直に、美味しいと思う。
美里によれば、五百ⅿLアイスティーを作るならば、茶葉はゼロを二つ取って五g、湯と氷は二百五十gずつ使う。
沸騰させたお湯を二百五十g計りながら入れて、しっかり蒸らせば、美味しいアイスティーを入れることができるらしい。
『ひと手間かければ、美味しくなるんだよ』と、妹は言っていた。
そうこうしているうちに、スマホにセットしていたタイマーが鳴った。
食べかけていたサンドイッチをラップの上に置いて、明里は立ち上がる。ラップ越しに確認しようとしたが、曇ってよく見えないため、菜箸を引き出しから出して、ラップを菜箸でめくる。
そのまま、菜箸をプリンの中央部分に刺した。何も付いてこないことを確認した明里はガスの火を止めて、ふきんを二枚これまた引き出しの中から取り出して、ふきんを両手に持ち、そのまま丼のふちの部分を持って、フライパンから取り出した。
それをトイレの床の前に寝転がっていた和孝が起き上がり、
「うわ、不味そう!」
と、中身を見もしないで言った。
明里はその言葉を無視すると、冷蔵庫にサランラップをして入れた置いた丼を、水の張ったフライパンの中に置いて、ガスの火を付けた。
蒸しあがった方の丼ぶりは、念のため、流しの方に置く
「危ないから、下がってくれる?」
そして、冷静な声で和孝に言った。
「早く食べないと、お弁当の時間終わるよ」
「は⁉ なんだよ、それ」
「学校の給食と一緒だよ。ここは、ご飯を食べる時間は決まっているの」
明里はそう言うと、残りのお弁当を食べるべく、机の方に戻った。
和孝が買ったコンビニのお弁当は、部屋の隅に転がっている。
どうやら食べられなくなると聞くと、さすがに和孝も「まずい」と思ったらしい。それを拾うと、手に持って明里がお弁当を食べている机の所に来た。
「それ、あんたの弁当?」
年上のほぼ初対面の伯母を「あんた」呼ばわりかい、と一瞬明里は思ったが、最初は「ババア」呼ばわりだったのだ。
それを考えるなら、彼なりに学んでいるってことなのだろう。
よく見れば、和孝は美里とよく似た顔立ちをしていた。
そして、美里と明里も顔立ちは良く似ていた。
と言うか、全く同じだった。
そう言えば、まだ和孝が赤ん坊だった頃。
明里が和孝の傍に近寄って話かけると、和孝は目を開けてにっこりと笑った。
その和孝を抱いていた美里もそれを見て笑って、和孝は同じ顔をした母と伯母の顔を見て、酷く困惑した表情になっていた。
「そうだよ」
そんなことを思い出しながら明里は答えた。
「頂戴!」
買って来たお弁当が入ったビニール袋を振り回しながら、和孝は言った。「駄目よ」
だが明里は、そう答えた。
「自分の分があるんだから、そっちを食べて」
少なくとも。
明里は、自分の分があるのに、他人の分を欲しがることは「浅ましいこと」だと、母から硬く言われ続けていた。
和孝は、明里の返事に黙り込み、明里の向かい側にざっと弁当の入ったビニール袋を投げた。
そして、大股でそこまで移動すると、ビニール袋から弁当を出して、蓋を開ける。
そのまま、手でぐちゃぐちゃと中身をかき回した。
さすがに、明里は呆気に取られた。
食べられる物をぐちゃぐちゃにするなど、明里の常識では考えられないことだったからだ。
そうして、ふと気付く。
おそらくは、美里はこれを和孝にやられたのだ。
美里もそして里花も、明里と同じように母に食べ物は大切にするようにと、しつけられている。
呆気に取られた明里を見て、和孝がにたあと笑った。
なるほどな、と明里は思った。
一番嫌悪することを、美里は我が子にやられたのだ。
それも、自分が我が子のために、心を込めて作った料理(もの)で。
「あんたのせいで、食べる気がなくなった」
和孝は汚れた手を見せながら明里に言った。
「あ、そう」
それに対して、あっさりと明里は言った。ICレコーダーに録音している以上、下手なことは言えない。
そしてそのままサンドイッチを食べてしまうと、タンブラーに入っているアイスティーを飲み、立ち上がった。
「手を洗いなよ」
そのまま和孝がぐちゃぐちゃにした弁当に蓋をして、ビニール袋に入れる。
これも、証拠になるだろう。
「あ、それから作っているおやつをぐちゃぐちゃにしたら、慰謝料請求するから」
念のため、牽制もかけて置く。あまりやりたくない手段だったけど、案の定、和孝はびくりっとした表情になった。
やっぱり「慰謝料請求する」という言葉を、日頃から使っているのだろう。……他人を、追い詰める手段として。
明里の知る美里は、絶対にそんなことを許しはしない。
人を脅すような行為を、父も母も許しはしなかった。
「私が私でなくなる」と、美里は言っていた。
つまり、こういうことなのだろう。
放課後児童支援員としては、母親が子どもの手を放すということは、あまり好ましいことではない、と思う。
でも、もう美里は限界を感じてしまったのだ。
そんなことを考えながらも、プリンの丼ぶりを冷蔵庫に入れて、和孝がぐちゃぐちゃにしたお弁当も入れる。
そして、二つ目のプリンの丼ぶりの火の通りを確認した。すっと菜箸が通ったので火を止める。
「真中ちゃん!」
と、その時だった。
階段の方から、子ども達の声が聞こえた。
「どうしたの?」
明里は、二つ目のプリンの丼を流しの方に移動させると、階段の方に足を向けた。
タッタッタッと軽い足音がして、壮馬と由紀の二人が駆け上がってきた。壮馬の手には、ブロック入れの容器がある。
「真中ちゃん、俺達ブロック全部出して遊びたいんだけど、安部ちゃんが二階なら良いよって言うんだ」
「下は他にも遊んでいる人がいるから、駄目なんだって」
「全部出さないとだめなの?」
「うん、作りたい物があるの」
そう言って、由紀はブロックで作る作品が載った本を、明里に差し出して来た。
「あ、そりゃ全部出さないといけないわね。わかった、机消毒するから待ってて」
明里はそう言うと、アルコール消毒液と台拭きを流しから取ってきて、食事に使った机を拭いた。
室内遊びを好む由紀とやんちゃ坊主の代表である壮馬は、真逆な性質なのだが、何故かこと「ブロックが好き」ということでは、一致していて、平日に一緒に遊んでいる相手がいない土曜日には、二人でよくブロックをしていた。
しかもその作り方が、ちょっとやそっとの物ではないのだ。
よくそんな凝った作品が作れるな、と感心するぐらい、二人とも精巧な物を作る。
そうなると、必要なブロックもきちんと探さないといけないわけで、容器に入ったブロックを全部出す必要が出てくるのだ。
案の定、二人はブロックを机いっぱいに広げた。
「何を作るの?」
「これ作るの」
問いかけた明里に、本を開いた由紀が指さしたのは、遊園地の観覧車だった。
「できるかな?」
「小さくすれば作れると思うの」
「なるほどねー」
ちなみに、由紀は発達が遅れているので、小学校では支援クラスにいる。しかし、手先の器用さは、この学童随一と言っても過言じゃなかった。
そして壮馬の器用さもなかなかの物で、由紀ほどでもないが、それでも十分に感心するブロックを作っている。
「俺は恐竜を作るんだ」
「観覧車と恐竜か……」
そして、この二人は各々自分の好きな物を作る。
なのに、合作をする。
「恐竜が遊園地に来ているんだよ」
「なるほど」
出来上がった世界はファンタジーだ。だが、それもまた「遊び」ではある。
「だっせえの!」
明里が二人のブロックを作る様子を確認しつつ、二つ目のプリンの丼を冷蔵庫に入れようとした時、和孝がそう叫んだ。
「だっせいの作ってるな、あんたら!」
明里は思わず、おいおいおい、と心の中で突っ込んでしまった。
由紀と壮馬が二階に上がって来たのは、ブロックのこともあったが、あわよくば、この二人ならば、和孝と遊べるかもしれない、と安部さんが気遣ってくれたのだ。
それなのに、見事にぶち壊してくださっている。
ただ由紀と壮馬のコンビは、ブロックを作り始めるとマイワールドに突入し、周りを気にしなくなる。
案の定和孝の暴言など耳にも入らず、ブロックを作っていた。
「だっせー!」
もう一度、和孝はそう叫ぶが、見事に聞こえていない。
明里は苦笑しつつも、丼を冷蔵庫に入れ、和孝の所に行った。
「はい、手を洗うよ」
明里はひょいと和孝を後ろから抱えると、トイレすぐ前の手洗い場へと連れて行った。
「放せよ、はなせっっっ!」
和孝はジタバタとするが、明里は和孝の手を掴むと、そのまま石鹸をつけて食べ物で汚れた手を洗った。
「遊ぶんなら、手を洗わないとね」
明里は、洗い場の壁に備え付けられているペーパータオルを取り出すと、和孝の手を拭きながら言った。
「うるせぇ!」
和孝は体をジタバタとさせて、明里の手から離れた。
そしてそのまま由紀のところに行くと、彼女が作っている観覧車を取り上げ、放り投げた。
「だせえのなんか、作るんじゃねえよ!」
そして、それを床に投げつける。
「あ、何すんだよ!」
「うるせえ! このブロックは今から俺が使うんだっっ。勝手に触るなっ」
壮馬がすかさず声を上げたが、和孝はそう言い放った。
「ちょっと、和孝君!」
さすがに明里も口調を強くしようとした。が、その時。
「いいよ、真中ちゃん」
そう、由紀が言った。
「真由ちゃんが意地悪されたら下に降りておいでって言ったから、私下に行くね。」
そして立ち上がり、階段へと降りて行く。
「あ、俺も行く!」
壮馬は完成した恐竜を片手に、下に降りて行く。
それを、呆然とした表情で和孝は見ていた。
その表情は自分が思ってもいなかったことが起こって、動揺しているものだった。
「そう言う時はさ、」
明里は、ため息を吐きながら言った。
「『一緒に、ブロックして良い?』って言えば良かったんだよ」
信じられない表情で、和孝は明里を見た。
この甥が日頃どんな環境にいるのか、明里にはわからないが、さっきの言い様が通用するのだろう。
だが、ここは「学童」なのだ。
子ども達は日々この場所に集い、もまれ、サバイバルで過ごしている。
特にこの土曜日に来ている子達は、土曜日では最年長の真由を筆頭に、日曜日以外は毎日ここに来ている。
はっきり言って、和孝のような甘ちゃんが、敵うはずがない。
呆然としたまま立ち尽くす和孝を横目に、明里は使った道具の後片付けを始めた。
しばらくすると、和孝はブロックで遊び始めた。
だがそれにもすぐ飽きて、ゴソゴソとし始める。
「スマホは駄目だよ」
洗い物を終えた明里は、ズボンのポケットに手を入れている和孝に声をかけた。
「何でだよ!」
「この学童はスマホ禁止しているの。携帯ゲームも、バトルカードもね。だから、使わないで。使うなら、預からなきゃいけなるのよ」
「パパに電話するんだよ!もう帰るっっっ」
「貸してくれる? 私がかけてみるわ」
まあ、それが良いだろうな、と明里も思った。
この環境は、和孝には厳しすぎる。
だが、「パパ」と表示された画面を通話にしても、「この番号はお客様都合により、通話できません」というアナウンスが聞こえるだけだった。
どうやら、着信拒否をしているらしい。
念のため、明里のスマホからも義弟に電話をかけてみたが、通じない。
これまた、和孝の時と同じように、「この番号はお客様都合により、通話できません」とメッセージが流れるだけだった。
なるほど、と明里は思った。
つまり、義弟も―この和孝である父親も、和孝の「クソガキ」ぶりには、手を焼いているらしい。
美里がいなくなって、面倒を見る者が「自分」になったとたん、なのだろう。
「通じないね」
明里は、通話を切りながら言った。
「何でだよ⁉」
「仕事の邪魔をして欲しくないんだろうね」
「そうだよ、パパは凄いんだぞ! あんたの仕事なんか、全然すごくないからな!」
「うん、だからここにいるしかないね」
あっさりと明里がそう言うと、和孝は、はっとした表情になった。
「スマホはしまっといてくれる?」
そして明里が差し出した自分のスマホを引っ手くるように受け取ると、急いでどこかに電話をかけている。
だが、望んだ相手は出てくれなかったのだろう。
茫然とした表情で、スマホから聞こえる言葉を聞いていた。
和孝にとっては、「理不尽」以外のなにものでもないだろう。
義弟は、我が子が何回もスマホに電話をかけてくることであろうと予想し、着信拒否を設定していた。
「何で繋がらないんだよ!」
スマホを片手に、和孝はそう叫んでいる。
「仕事だからでしょ」
明里の冷静な突っ込みに、和孝は黙り込む。
「まあ、とりあえず、ブロックで遊びなよ」
そんな和孝に、明里はそう声をかけた。
それ以外、今の和孝にやれることはない。
と、その時だった。
「真中ちゃん、良いかしら」
安部さんが、二階に上がってきた。
「私達、外に行くのよ。だから、ここに残るなら、お客さんが来た時はお願いね」
「あ、わかりました」
安部さんの言葉に、明里は頷いた。
明里達の学童には、奥まった場所に園庭のような場所がある。
園庭は、周りを建物に囲まれた状態の場所にあるから、お客さんが来たかどうか、わからないのだ。
「俺も行く!」
安部さんの言葉を聞いて、和孝は叫んだ。
「外に行くの? 和孝君」
「そう言っているだろ、馬鹿じゃねぇの?」
その言い様に、明里は安部さんと顔を見合わせた。
「じゃあ、私達は先に行っているわ」
だけど、安部さんはよけいなことは言わず、そう言って下に降りて行く。「外に行くなら、ブロック片づけて行ってね」
明里がそう言うと、和孝は嫌そうな表情をしたが、黙って片づけ始めた。
根は素直なのかな、と明里はそんな和孝を見つめた。
「ほら、行こうぜ!」
そして、ブロックを片付けた和孝は、明るくそう言った。
その脳裏には、園庭に行けば、自分が皆の注目を浴びれるってことを思い浮かべているであろうことが、見て取れた。
正直明里は、「甘い」と思いながらも、和孝と連れ立って園庭へと出た。
熱中症対策のためにも、タンブラーと和孝のペットボトルも持って行く。
和孝は明里の先をさっさと行き、園庭へと歩いて行く。
やれやれと思いながらついて行くと、案の定、和孝は茫然として立っていた。
和孝は、自分が園庭に行けば、注目されると思っていたらしい。
由紀が作ったブロックを壊した時点で、和孝はこの学童の子ども達には、「敵」として認定されている。
集団の中では色々あるが、子ども達はこの「学童」と言う場所で、共に過ごした「仲間」だ。
その仲間の一人が、コケにされたのだ。
そう易々と、受け入れるはずがない。
先に来ていた安部さんも、さてどうしようと、試案顔だ。
と、その時だった。
「これ見ろ!」
和孝が、スマホをズボンのポケットから出して、聖火のように掲げた。
「これで俺はゲームするんだぜ!」
しかし。
遊んでいた子ども達は、「だから何?」と言う視線で和孝を見た。
「別にいいわ」
縄跳びをしていた真由が冷たい声で言った。
「家に帰って、できるし。スマホより、タブレットの方が画面大きくて見やすいし」
その言葉は、今この場にいる子達の気持ちを、端的に表していた。
自分達の「仲間」をコケにした余所者を、ここにいる子達は「敵」として認定している。
そんな上から目線から言っても、受け入れる子はいない。
「そういう時はさ、『一緒に遊ぼう』って言えば良かったんだよ」
明里は、呆然となっている和孝の手から、スマホを取り上げながら言った。
「返せよ!」
「遊んでいる時に、スマホ壊したら、『慰謝料請求するぞ!』って言うんでしょ? 壊したらいけないから、預かっとくね」
外遊びにスマホを持って行っても、意味はない。
もちろん和孝は自分のスマホを見せて、皆が「やらせて!」と言って自分を取り囲むことを期待したのだろうが、そんな甘いことは起こらず、誰も和孝とは遊ぼうとはしない。
こういう時、放課後児童支援員としては、他の子ども達と遊べるように知恵を絞る。
安部さんが由紀と壮馬を二階にやってくれたのもその対処の一つだし、指導員と一緒に遊んで、その遊びをしていくうちに他の子達が参加していく、という形にしていく方法もある。
けれど、それは「本人次第」という面もあるのだ。
いくら放課後児童支援員が気にかけても、子ども達が「嫌」と思えば、一緒に遊ぶことはできなくなる。
「こんな奴らと遊べるか!」
案の定、と言うのか。
和孝もいじけている気持ちを誤魔化すように、そう叫んだ。
「じゃあ、部屋に戻ろう」
明里は、和孝に声をかけた。この状況では、もうそれは仕方がない。
学童の子ども達が戻って来るまでは、スマホを使わせるしかないかな、と思った。
だが和孝は、くるりと明里の方を向くと、明里が手に持っているタンブラーを奪い取った。
「駄目だよ、それは!」
明里は慌てて止めるが、和孝はそのままタンブラーをいっきに飲み干そうとする。
「がっ」
でも。案の定と言うのか。
次の瞬間、和孝は、めんつゆを麦茶と間違えるコントのように、タンブラーの中身を吐き出した。
「大丈夫⁉」
誓って言うが、明里はタンブラーに変な物は入れていない。中身は、ブラックティー。
要するに、シロップもミルクも入っていない紅茶で、美里が明里のために用意してくれたものだった。
★★★
苦い。
それが、最初に和孝が思ったことだった。
あのタンブラーには、母親か入れた紅茶が入っているのだと、すぐにわかった。
母親が入れてくれる紅茶は、美味しかった。
自分はそれが大好きで、朝は毎日母親に入れてもらっていた。
だけど、今はそれが飲めない。
母親が出て行ってから。誰も、自分のために紅茶を入れてくれない。
それだけじゃない。
ご飯も。掃除も。洗濯も。
誰も、してくれなくなった。
一緒に住んでいる祖母は、足が痛い、腰が痛い、そう言って、自分がやって欲しいことを何一つしてくれない。
父親に至っては、自分を怒鳴りつけるだけだ。
何で、と思う。
母親がいた時は、二人共優しかったのに。
最初は。母親がいなくなって、「うるさい奴が出て行った」としか、思わなかった。
ご飯は「好きな物を食べなさい」と祖母は言ってくれたし、父親も「すぐに帰って来る」と言っていた。
だから、自分の困ることなんて、何一つないと思っていた。
だけど。
五月が終わって、六月が過ぎて、七月になっても母親は戻って来なかった。
最初は笑っていた父親と祖母も、だんだん表情が怖くなっていって、二人は自分を見ると、怒鳴りつけるようになった。
どうしてなのか、わからなかった。
前は笑って許してくれたことを、鬼の形相で「するな!」と言われる。
ご飯も「こんなの食べたくない」と言っても、「じゃあ、食べるな」と言われて、お風呂にいつまでも入らないでいると、「さっさと入れ」と言われて、テレビを見ていると、「早く宿題をして寝ろ」と言われる。
「嫌だ!」と言って暴れても、無視されるか怒鳴られるかの、どっちかだった。
『もう嫌よ。まだ見つからないの』
『実家には連絡したのか⁉』
『あの無責任な女の母親は、「知らない」としか、言わなかったわよ!』
毎晩。
そうやって、祖母と父親の怒鳴りあう声も聞こえるようになった。
何で、と思った。
口うるさい母親がいなくなって、せいせいしたはずだった。
でも。
自分の周りは、どんどん変わって行った。
『和孝君のお母さん、いなくなったの?』
学校でも、そんなことを言われて。
『うるせぇ!』と叫んで殴ったら、
『そんなことする悪い子だから、出て行ったんだよ‼』と女子に叫ばれた。
そして。
先生が来て、『お友達を殴ったからお家の人に来てもらいます』って、言われて。
でも、父親も祖母も学校には来てくれなかった。
いつもだったら祖母が母親と一緒に来て、「慰謝料請求するからね!」と言ってくれたのに。
先生がお家に送ってくれたけど、祖母は家から出てこなくて。
その日帰って来た父親に、『もうたくさん!』と叫んでいた。
「慰謝料請求しますよ!」
「では、こちらも損害賠償請求になりますね」
不意に。
そんな言葉が、耳に入って来た。
「私の同僚が、本当なら、もう上がりの時刻なんです。それなのに、この一件でまだ職場にいるんです」
この声は、母親とよく似ていた。
そして、姿もよく似ていた。
最初は、母親だと思った。
『おせぇぞ、ババア!』
と言ったのも、いつも言っていたからだ。
『悪かったわね、オジサン』
けれど。
帰って来た言葉は、思ってもないものだった。
「それに、和孝君がこんなことになってしまって、本来在籍している子ども達に適切なサービスが提供できない状況でもあります。それに対しての損害は、どうされますか?」
それは、父親も同じみたいだった。
その言葉の後には、父親は何も言わなかった。
「やっても良いですけど、結局『和解』になると思いますよ」
「……っ、そもそも、美里が子どもを置いて、家を出たからですよ! あなたは姉として申し訳ないと思わないんですか⁉」
「誰に対してですか?」
一瞬。父親は、言葉を詰まらせた。
「私は美里の姉です。ですから、美里がどんな妻で母親だったのかは、わかりません」
声は、そこで一度止まった。
「ただ、美里が自分の思いをきちんと伝えられる環境にあったら、和孝君はこんなことはしないと思います」
今度は、父親は何も言わなかった。
「私のお弁当を欲しがったので、断ったら、買ったお弁当をこうしました。ああ、何で分けてあげなかったかは自分の分があるのに他人の物を欲しがるのは、行儀が悪いからです」
その間も、母親によく似た声は、そう言葉を続ける。
同じことを、母親も言っていた。
『それぐらい良いじゃない、意地悪な母親ね』
『本当にそうだな』
それを聞いて、自分は得意気に母親のお皿から、好きなおかずを取った。「和孝はあなたの、」
「甥ですね。でも、赤の他人でも、子どもが同じことしたら、注意しますよ。大切なことですから」
そこで。
自分は、起き上がった。
「和孝、大丈夫か⁉」
「お母さんは、俺がそんなことをしたから、怒っているの?」
父親が話しかけて来たけど、自分は母親によく似た人―「伯母さん」に、そう聞いた。
伯母さんは、驚いたように自分を見たけど、
「そうだね。でも、どうして家を出たのかは、私は聞いてないの」
真っ直ぐな視線を向けて、そう言った。
「『ごめんなさい』って、謝ったら、帰って来てくれるかな?」
自分は。
本当にそう思っていた。
謝ったら、母親は帰って来てくれると。だから。
「和孝君がそう言ったことは、伝えておくね」
伯母さんがそう言ってくれて、安心した。
これで、母親は帰って来てくれると。
「ただ、これで許すかどうかを決めるのは、あなたのお母さんだから。それでお母さんがお家に戻るかは、私にはわからない」
けれど、伯母さんはそうも言った。
父親は、「子どもに何てことを言うんだっ」って言っていたけれど。
「謝っても許されないことがある」と言うことを、自分はこの後に初めて知ったのだ。苦い、ブラックティーの味と共に。
★★★
「そっか……ごめん、迷惑かけたわ」
その日の夜。
明里の話を聞いた美里は、苦い表情でそう言った。
そこには、置いてきた者に、今更心煩わされる忌々しさがあった。
「利用料は? 払っとらすと?」
「それは、大丈夫。ちゃんと払ってもらったばってん、この書類に記入ばお願い。一応、登録せにゃいかんけんね」
明里は、美里にそう言って、登録用の用紙を差し出した。
「明日までに書いて渡すけん」
ため息を吐きながら言う美里に、明里は思い切って話すことにした。
「ねえ、美里。あんまり聞かんごつはしとったばってん、あんたこっちに来てから、あちらとは連絡取っとると?」
「……いや、しとらんよ」
心の底から。
苦い表情をして美里は答えた。
「和孝君はさ、あんたに会いたかったんじゃなかとかな。だけん、わざわざ東京からこぎゃん離れた県まで来たとじゃなかと?」
「戻れって言うと?」
「そうじゃなかよ」
苦い口調の妹に、明里は首を振った。
「私は、あんたが姉妹の中で一番我慢強かと知っとるけん、そのあんたが家ば出たってことは、余程のことがあったんじゃなかかなって思っとるよ」
そこで、一度明里は言葉を切った。
「ばってん、これからどぎゃんするかは、きちんと決めて行った方が良かと思うとよ。あんたがどぎゃんするか和孝君に言ってやらにゃ、あん子は、動けんままたい」
「……私は、あん子とはもう暮らせん」
その言葉に、明里は美里がどれだけ傷つけられて来たのか、わかるような気がした。
「なら、それば伝えてあげにゃんたい」
だけど。
それと、和孝に事実を告げることは別だ。
和孝は、母親に戻って来て欲しいと思っているし、自分は謝ったから、母親は戻って来ると思っているだろう。
「姉ちゃんは時々、難しかこつば言うよね。私は、和孝とはもう一緒に暮らせんけど、それを告げるのを『辛い』と感じる程度には、情はあっとよ」
そう言って、美里は視線を下に降ろした。
でも、それも一瞬のことだった。
「ばってん、そぎゃんね。姉ちゃんの言うとおり、きちんと話ばせなんね」
明里に取りなすように言い、小さく笑う。
「美里。今日のお弁当、美味しかった。作ってくれてありがとう」
「紅茶は美味しかった?」
「うん」と、明里が頷くと。
「そう、良かった。あの味が私一番好きなの」
と、美里は安心したように頷いた。
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