「道成寺」後編~お能と謡曲のお話Vol.4
訪れた場所とそこにまつわるお能・謡曲の物語、今回は道成寺 後編です。
お寺に伝わる安珍清姫の伝説は、女の妄執、鬼女の物語として知られていますが、謡曲、お能のお話の方には、脚色が加えられています。
この違いが切なく、そしてこの物語の主軸はそこではないのかもしれないけれど、ここに気持ちを向けてもらいたい、と私はとても思うのです。
悪気のない大人の戯れが、子どもの心に残すいつまでも消えない跡形、
そんなことも描かれているような気がするのです。
前回は、お寺である道成寺に伝わる安珍清姫物語をご紹介しましたが
今回は謡曲になっている、お能の方のお話です。
前編はこちら
後編の音声での配信は10分ほどです。良かったらこちらからもどうぞ
謡曲・お能の道成寺
この物語の作者は、室町時代の能楽師であり作家である
観世信光さん(又の名を小次郎さん)
道成寺の伝説をもとに創ったそうです。
謡曲は「これは紀州道成寺の住僧にて候」と住職が語る所からはじまります。春です。桜が咲いているお寺です。
住職は「この道成寺には去る子細あって久しく撞き鐘がなかったのだけど、このほど再興した。今日は吉日だからと釣り鐘の供養をしよう」と言います。さしずめ梵鐘の落成式のイメージでしょうか。
けれど「志ある人は参詣してもよいが、訳あって女性が来ても絶対に入れてはならぬ」とお触れを出します。
そんな中、一人の白拍子の女がやってきます。
「鐘の供養を拝みたい、舞を見せるから」と、能力といわれてる寺男に懇願します。この男はつい根負けしたのでしょう、中に入れてしまいます。
桜が咲き乱れる中、独特の拍子を踏みながら
急流を思わせるような激さで舞う白拍子。
すると僧や寺男達は眠気に襲われます。
白拍子の女はそのまま鐘に近づき
「龍頭に手をかけ 飛ぶとぞ見えし 引きかつきてぞ 失せにける」
つるされた鐘を落して、その中にはいってしまいます。
寺男たちはびっくりです。同輩と相談して住職に報告します。
住職は「言語道断」と言いました。この言葉は今もよく使われますが、
謡曲の中では激怒や驚愕の感情表現として用いられるそうです。そして
「かようの儀を存じてこそ堅く女人禁制とは申て候に、くせごとにてある」と仰います。くせごととは、強い叱責なのだそうです。
それから鐘の様子を見たのち、住職は女人を禁じた理由を語りはじめます。
住職は、そういうことがあったから、その女の執念が残っていた
だから女人禁制ともいったのだけれど、こうなったら仕方がない、と、
僧たちは皆で祈祷をはじめます。
水反って日高河原の、真砂の数は尽くるとも
行者の法力尽くべきかと 皆一同に声をあげ
東方に降三世明王 南方に軍荼利夜叉明王
西方に大威徳明王 北方に金剛夜叉明王 中央に大日大聖不動
なまうさまんだばざらだせんだまかろしゃだそはたやうんたらたかんまん
不動明王の真言、さらには
聴我説者 得大知恵 知我身者 即身成仏
我が説を聴くものは 仏の知恵を会得し、
我が心を知る者はその身のまま成仏する、
今の蛇体のままの即身成仏を祈るのだから、何の恨みがあるものかと
一斉に唱えます。
そうるすと、
「すはすわ動くそ 祈れ ただ
引けや手む手に 千手の陀羅尼
不動の 慈救の偈 明王の火焔の 黒煙をたてぞ」
少し長い場面紹介になりましたが、ここまで言いたかったのはこの
不動明王の火焔は迦楼羅炎とも呼ばれ、私がいろいろあやかりたく、
屋号にさせていただいているカルラの吐く炎だからです。
またこれは調伏祈祷を形容する常套句でもあるそうです。
閑話休題、鐘の方はといいますと、
行者の法力によって、鐘楼に引き上げられました。
しかし今度はそこから蛇が姿を現し、僧達を追い払おうと襲いかかります。
僧達は、蛇を祈り伏せようと、つぎは竜王にお願いをします。
五大龍王を勧請し、激しく闘うのです。この辺りはなかなかスペクタクル、現代ならヒーロー物のようで、昔の人も、わくわくしたのではないかと思います。
「謹んで願い奉る 東方の 青龍清浄」と、はじまって
謹請西方白体白龍 中央黄色体黄龍 そして
全世界のあらゆる龍王達に謹んで願い奉る、
どうか、憐れみをもって願いを聞き入れ給え、
「大蛇の居場所など無いようにし給え」と祈ります。
すると「鬼女は祈り伏せられ、ついにかっぱと転んだが、
すぐ起きあがり、鐘に向かって息を吐く」
その息は猛火となり、蛇体自身を焼いてしいます。
鬼女は、その苦しみに耐えかねて日高川の深淵に飛び込んでいきます。
そこで僧たちは、望みはかなったと、
それぞれの僧坊へと帰っていきました。
これが謡曲の道成寺のあらすじです。
おとなからの刷り込みの危険
個人的には、最後は、即身成仏というものが叶ったような感じもしなくもないので、その点で、作者の優しさが感じられる気がしました。
そしてまた、そもそも娘の父が、余計な事言わなければ、彼女もそれほどの思い込みと一念を抱くことはなかったかもしれないから、
「この娘が良くないとは言い切れないよ」という
救いも含まれているようにも思えます。
そして何より、作者がどんな想いでこの設定にしたのかはわかりませんが、そしてこのテーマを道成寺から思う起こす人は少ないでしょうが、
この時代に、今の世の中でも起こりうる
迂闊な親や大人からの子どもへの刷り込みの危険を描いていもいる、
と強く思うのです。
それは「こんな人のお嫁さんになるのが貴女の幸せ」のようなこともそうですし、「男なんだからこうなるのが当然」と言うような決めつけもそうですし、「友だちは多くないと」「活発でないと」などなどあげればきりがないでしょう。親の価値観によって、そのようにあろうと素直な子ほど、長くそれに縛られて、本来の適性を活かしきれないこともあります。
家の外を知るようになり、そこでの出会いや経験により、これらは徐々に払拭されたり、「それに沿わないオリジナルでよい」と意識されていくことも多いですが、でもはやり、できればおとな側は子どもの内側に、妙な跡形をつけないようにしてあげてほしいと思うのです。
勿論さらっと説明だけで進んでいるお話ですし、それよりはバトルの方が印象に残る道成寺です。でも実はそんな背景のお話になっているのですよ!と
日頃のセッションのことなども重なり、とてもお伝えしたいと思っていた内容でした。
そして、その場しのぎで約束をして逃げた安珍さんの方法、
だまってすぐに逃げ出した謡曲の方の山伏、
さて、本当はこの場を、どう乗り切ればよかったのか、
お父さんに娘を説得してもらえばよかった?
いやいや、でもこの父がけしかけているなら、
きっとぴんと来てないだろうし…とか、
娘も父の言うままのお婿さんじゃなくて、ここに至るまでに
誰か素敵な人が現れたり、恋愛できたらよかっただろうにな…とか、
いろんなことを思い描いてみたりしています。
みなさんはどう感じるでしょうか。
道成寺後編でした。
最後までおつきあいいただきありがとうございました。
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