なんでも詰め込みすぎるという自覚はあまりない。ただ、結果的にそうなっていることが多かったかもしれないなあと振り返ってみる。
いくつもの予定を詰め込んで、たとえばそれを別の一日に集約する、なんてことは好きではないくせに、結果的にぎゅうぎゅう。
スケジュール帳がまっさらになっていると気になる、というひとがいると聞く。埋まっていないと不安になるとか。
そういう感覚はないものの――たとえば、写真を何枚も飾るとか、1ページにおさめるとかいうときに、とりあえず気に入っているものを全部並べてみてしまう気がする。
その中からそぎ落としてはいくのだけれど、どうも詰め込んでいく、あるいは詰め込まれていく傾向があるように思う。
例年の年賀状準備でも、「余白」について考えさせられているが、どれほど余白の大切さを思い、感じ、表せるようになっただろう。
今年の年賀状を見ると、少しだけ成長したような気はするものの――どうかな?
どこまで自分は余白の存在に耐えられるか?という挑戦になっているかのような――いや、そこまでストイックに向き合っているとは言えない。
モノの配置(ディスプレイ)や、描かれた絵やイラストで余白の存在にうつくしさを感じることがある。
平面だけでなく、建築の中にも――家具の配置にもある。そういわれてみれば、きっと華道のなかにもあるだろう。
そうそう、音楽にもあると言っていいのかな?
楽譜でいえば「休符」の部分で、これは耳で聞く余白と言っていいのかも?
「余白」。
そう、じゅうぶんな空間・時間は、きっと余韻を生む。
「余白」――そこが「無」である、「無」となる、「無」とすることの意味。
……。
そんなことを考えることになったきっかけがある。
きっかけは、ここ数年楽しみに読んでいる、「Artiste(アルティスト)」(さもえど太郎・新潮社:バンチコミックス)という漫画。
はじめはどういう展開かを把握・期待していたわけではなかった。自分で選んだものでもなく、下の弟から借りて読み始めたのがきっかけだった。
主人公のジルベールは、嗅覚・味覚が超常的にすぐれているのだが、それゆえにひととのかかわりづらさを覚えるようになり、不器用な生き方をしてきている。
いわゆるコミュ障というのか、人との距離感をはかりきれず、あらゆる所作がおどおどとしていてぎこちなく、なんとも頼りない。1巻読みはじめは、単なる読者ながらちょっとイライラさせられた。
そんな彼の、パリで住まいを決め、そこで出会う人々、働くレストランでの人々とのかかわりが描かれ、料理にまつわる話も出てくるけれど、料理そのものがフォーカスされるようなグルメコミックではない。
謎の家主(飼っている猫がやたらに存在感があってかわいい)、お金のない芸術家と家主に認められている入居者たち、癖のある料理人たちの集まる職場、幼なじみなどが登場し、それぞれのバックグラウンドに絡んだエピソードでジルベールが少しずつ解きほぐされて”人間らしく”なっていく。単純に言えば、成長を軸にした人間ドラマだ。
そのなかで――まったくもってまとはずれみたいに「余白」について意識するようになったのは、次のようなエピソードから。
ジルベールが下宿先を決めて部屋を整え、雇われたレストランでは責任あるポジションに就く。チームを率いる役割を持たせられながら、怯えつつ戸惑いつつ仕事をしていく第2巻。
盛り付け含めてオーナーシェフに「よろしくね」と言われ、プレッシャーを感じていたある日、入居者の一人・画家のジャンに、自分の作った料理を出して、おそるおそる「どうかな、盛り付け」と聞く。
あっさり「大衆食堂みたいだな」と言われ、ショックを受ける(その横でジャンは「味はうまい」と評している)。
ジルベールは、自分も皿の中心をとるという基本は押さえていることを弱々しくも説明しはじめるのだけれど、「お前お前お前 そこから違うよ!」とこれまた否定される。それはそれでひとつの手法だけれど、それだけだと身動きがとれなくなる、と。中心をちょっとずらすことで、奥行きと動きが生まれること、さらに「皿を一枚のキャンバスと思え」と言って、料理にあてはめて説明をしてくれる。
これを聞いてジルベールはもっと教えてほしいと懇願し、ジャンにルーヴル美術館に案内される。そうしてジャンに教えてもらった”視点”をもって絵画を鑑賞していく――という流れ。
ひとつの要素に注目してみていくとわかりやすい、というジャンの助言どおり、絵のさまざまな要素をたどって鑑賞するジルベール…………。
このときのページが、まさに余白の多いコマ展開なのである。
ながめている作品が描かれているコマではなく――ジルベールがたたずんで眺めている立ち姿や、横顔の目元とともにあるモノローグのコマ。
少しずつ少しずつ核心に迫るところが、横顔、立ち姿で描かれている。
ここをめくると、ページ上部三分の一は見開いた目元のクローズアップコマ、その下には白いバックの中で浮遊しているジルベールの全身が描かれたコマ割りとなっている。
髪の毛以外、彼が身に着けている服はここのコマではすべて白抜きだ。
喧騒から遮断され、無となり、知る、あるいは開かれる――いわば開眼し、「新たな知見を得る/真理を受け止める瞬間」が、この一連のページ構成でとてもわかりやすく表現されているということになる。
そして、こういったひとつのできごと、経験から彼は変わっていく。オーナーシェフに盛り付けを見せて、合格点をもらう――と、まあ、これで2巻のひとつの山場が終わる。
このエピソードは盛り付けのヒントであって、直接的に「余白」ということばが出てくるわけではないけれど、コマ割りから・表現からそのことを考えるきっかけになって、印象的だった。
ちなみに、先のモノローグの改行部分にも余白を感じたことを付け加えておく。
いわゆる読点の息つぎとまた少し違った、この改行でのひと呼吸に。
漫画のこのせりふは縦書きであり、コマのなかでの絵との間隔も意味があるなあ、とわたしは勝手に思っている。
たまたま11月末と12月にフレンチをいただく機会があって、このエピソードを連想した。
別々のお店でいただいたのだけれど、大きいお皿にちょこん、といった風情のものもあれば、明るくやわらかな雰囲気で置かれているなあ、と感じたものもある。
あらためて、このまぜこぜコラージュ写真で見て、シェフの特長、コンセプトの違いが表れるものなんだな、ということも、実感する。
一皿一皿に「たたずまい」があり――そう、茶室でお迎えされているみたいに、こちらの背筋もぴんとしたくなるような、和のおもてなし的なものを感じたり。
「のびやかさ」のある一皿一皿は、食材の色に注目して、それをよりよくしっかり見せてきてくれて、作法を超えてふんわりと迎えてくれるように感じたり。
どちらの機会とも、シェフの意図を自分が正しく?きちんと?受け止められていたかはわからないが――でも、舌で味わう前に目でも味わう楽しみを、たしかに感じさせていただいた。
そうして、余白のある一皿から、あらためて余白は余韻を生む、と思わされる。
自分も、配置のうつくしさを大切にしたい。意識していきたい。
余白の持つうつくしさを、表せるようになれたらいいなと思う。
それは絵を描いたり写真を撮ったりするときだけではなく、この「綴る」場においても。
――などとあちこち寄り道語り。
またいつか、余白について語りたい。あ、それとは別にまた「Artiste」の話もどこかでしてみたい。
でも、今日はここまで。