脱・閉塞
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「窓がない空間はキライ」
(たいていそうだろう、とうちのひと)
雨戸のシャッターを下ろすたび、思う。
台風15号がくるという晩も、そう考えながら、
シャッターの音を聴いていた。
そして、台風が過ぎた朝、いまいちすっきりしない空。
閉め切った部屋の中からは、まだなんとなく風の音が聞こえたので、
自分ではシャッターを上げずに家を出ることにした。
風雨に荒らされた世間を目にしつつ、職場に向かう。
夜。
仕事から帰ったら、なんとシャッターは全部閉まったまま!!!
いや、夜なのだから、シャッターが閉まっていることはごく自然。
ではあるが、この日うちのひと、閉めたまま出かけたのか。
軽くショックを受ける。
台風が過ぎても開けなかったらしい。
閉めたまま出かけたことにではない。
自分だって上げてから出勤することをしなかったわけだから
それも変な言い方だけど。
では、軽い衝撃というのは、うちのひとがシャッターを
上げなかったことに対してか?
いや、違う。
単純に、シャッターが下りたまま、という状況に対してだ。
「閉め切られたまま」という状況に。
たまらなく苦しい気持ちにさせられた。
窓があるのに閉ざされた空間にいる――。
これがニガテだということに、突如気づかされた。
…………息苦しい。
朝がきたときにシャッターを上げるという、
当然の作業を経なかったことで、よけいに閉塞感が増したのか?
締め切られた空間がニガテだということを、急速に意識させられ、
当惑すら覚えた。
窓があっても、その向こうで外科医と隔てる状況を作るシャッター。
閉め切られた空間というのが、 これほどまでに苦しさを
感じさせるものだとは!!!
そういうわけで――
夜だというのに、シャッターをすべて上げた!
上げずにはいられなかった!!
シャッターを上げていくと、窓一枚で隔てられた空間になる。
少しずつ平穏な気持ちを取り戻していく。
…………。
…………。
こう振り返ってみると、我ながら病的ではないかと感じるものの、
最近の自分に必要なのは、そういう行為であったのかも、と。
脱・閉塞。
常に突破口を探し求めているから、物理的に、リアルに、
閉塞感ある空間の中に置かれていることを意識すると、
方向感覚を失い、わからなくなってしまうのだろう。
せめて、
せめて、
家にいるときは、
開放的な自分でありたい。
シャッターを下ろさずに、
呼吸していたい。
(2019年9月12日・Facebookノート投稿)
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閉所恐怖症、というほどではないけれど、窓のない場所は全体的に苦手だ。だから、エレベーターもちょっと苦手。
だれかと一緒だと少し安心できるけれど、一人で乗っているとなんとなく重圧を感じる。
ガラス張りのエレベーターは違う意味で――足元が地上から離れていくという怖さがあるが、これもだれかと一緒だと結構大丈夫だ。
ちなみに、足元がガラス張りになっている場所(瀬戸大橋とか)では確実に足がすくむ。
ということもありつつ――。
窓があるのに外が見えないというのは、ともかく徐々に徐々に圧迫されてくる状況である。
飛行機で日よけを下げてくださいと言われたときに、ちょっと息苦しくなるのも、きっとそういうことなんだろう。
投稿内容の感覚は今でもよく覚えている。
ふつうなら、暗闇からの解放に安堵するのだろうけれど、むしろ家の中のほうが明るい。
シャッターを上げたときの安堵感、外気を感じられる喜びを味わった。夜の住宅地のなかで、深呼吸をしたこと。
潜水艦や宇宙船には乗れないな……と連想する。
そのときもそんなことを考えたような気がする。
窓はあっても小さい。
そして、その窓は外気を取り入れるために使われることがない。
あるのに開かない、開けられない窓は、息苦しい。
飛行機も状態は同じなのだけれど、窓から見える景色が広々としていて、緑の大地や青い海、こまごまとした家々など人の営みを感じられたり、昼夜の時間を感じられたりする(日の出も日の入りもある)からか、今はまだそこまでつらくない。
そのうちしんどくなっていくのかもしれないが。
今までもこれからもなかったことだが、都市部の高層オフィスビルで働くこともできないだろう。
空調は快適できっと過ごしやすいに違いないが、それでもきっとしんどいだろうと思う。
今の職場がふつうに窓を開け閉めできるのは、ありがたい。
それでも閉塞感が漂わない、というわけではない。これは物理的にというより心理的に。
だからこそ、物理的に窓が開けられ、外気に触れられる機会があるのは大事なのだ。
脱・閉塞、突破口。
少なくともそんな役割を期待しているのが、窓だ。
窓のある場所で、生きる。
願わくば、今日も明日も、これからも。