そぎ落とす
以前「本も洋服も」(思い出投稿+α)で書いたことでもあるが、原則物欲にまみれて生きている。
物理的なことでなくても、だいたい切り捨てられない傾向にあると思う。
「そぎ落とす」という行為そのものが、自分にはそぐわないのだろうけれど――それでも、今回はそんなテーマを掲げてみた。
ちょっとした気づきを通して得たこととして。
さて、年度末近くのわが職場ではいつも、感話集を冊子にまとめるので、自分が担当して話したときのものを文字原稿にして提出してほしい、との依頼がある。
見開きページにおさまるように、字数の目途は2,000文字となっている。
感話が10分程度なので、わたしの原稿はだいたい3500字~4000字以下におさめるようにしている。つまり半分くらいはカットしないと、求められている字数におさまらない。
字数案件――などとそんな大仰な言い方する話でもないのだが、毎日なにかしらアップするという営みのなかで、ちょっと頭をよぎったことがあった。
勢いにまかせて――なんだか、そういうギアがある。ふいに思いついたことがあって、それを勢いにまかせて書き連ねる。
忘れないようにするためにキーワードだけでもメモを取っておく。
もちろん、取るタイミングを逃してしまうこともある。キーワードを忘れても、なにか書きたいことがあったはず……という引っかかりだけは記憶にあったりするのだが、もしも覚えていなければ、たいしたことではないと忘れることにする。
忘れなければ、それはそれで自分としては気になっていて、なにかしらそのことについて書けるだろう、と。
いずれにせよ、行きつ戻りつ、心の赴くまま思いついたままことばを打ち込んでいることが多いから、どれだけ推敲していると言えるのか……。
数日かけて書いているものも、同じく。
相変わらず年明けもそんなことを繰り返している日々なのだけれど、合間にこの感話冊子化のための原稿準備に向き合うことになって、気づきがひとつ。
それは、好きならばそぎ落とすスキルが必要である、ということ。
話した原稿をつづめるために、そぎ落とす作業はこれまでもやっていた。せいぜい話し始めの導入部(マクラ)のところを消すくらいで、半分なんてほんと無理!と困難しか覚えていなかった。導入部だって、自分としては「なぜこのテーマで話すのか」のきっかけになった事象を挙げている部分なので、ほんとうは割愛したくない。けど、本質ではないので削る――という”英断”をしてきたのである。
ここ、noteでまったく無節操に、なんの制限もかけず好き勝手につづっているのは、なんと自由なことだろう。
それに比べて”書き起こし”ってやつは、なんと不自由なことか――。
そう思って、こんなふうに入力画面に向き合っていたのだが、ふいに「いや、違う」と思った。
字数が決められているなかで、そして一度話しことばとして伝えたものを、書きことばに直して伝えるというのは、ほんとうはもっと自由なのではないか、
自由であっていいのでは、と。
そぎ落とす作業をやっていた、と書いたが、それはやっていたつもりにすぎなかったのでは?
話したときの思いが勝ちすぎて、融通が利かせられなかっただけ。
ほんとうは、本質を伝えるためのそぎ落とす作業を、もっと真剣に、もっとストイックにやるべきだったのだ。
noteに対して”自由”と評したが、これもまた失礼な感覚だ。いや、自由ではあるのだが――わたしがやっているのは単なる垂れ流しみたいなものではないだろうか。
自分勝手な自由であって、多くのクリエイターさんたちのように、丁寧に向き合っているとは言えないのでは、と。
ある意味冒瀆的と思われていることもあるかも?などと内省的に思いながら、”書き起こし”作業に戻ったときに、はて、と素面になった。
あのときなにを伝えるつもりで話した?
なにを伝えようとして10分の原稿を準備したんだ?
ごくごく基本的な問い。
そうして――ふと気づく。
自分はずっと、この原稿作業を、「どんなトピックを、どういう順序で話したかを書き起こすこと」に重きをおいていたのでは?
10分という時間で伝えたかったことは、話しことばならではの道のりをもって準備したもの。
書きことばにしたとき――たとえばそれがもともと読み物としての原稿で、2000字で、という条件付きで頼まれたものだったらどうか?
さすがに、文字起こしのようなものとは思っていなかったけれど、「話したかたち」にとらわれてはいなかったか。
”話したとおりに書かなければならない”、といったような制限みたいなものを自分に課してはいなかったか。
突如として、話した内容をいかに書きことばとして残すかについては、もっと自由であれよ!と自分を励ましたくなった。
”あの日話したことを2000字にまとめる。”
要旨をまとめると同時に、自分らしい書きことばにして読み物にする――ということを、どうしてもっと自由に考えられなかったのか。
深呼吸。
深呼吸して、感話原稿を再び――何度も読み返す。
そうして、手を入れる。
内容のエッセンスに、このくだりは不要と思えばエピソードごとごっそり切り捨てる。代わりに、主旨をよりわかりやすくするために、話したときには使わなかったことばを補う。
耳で聞くときには、誤解を与えないよう、混乱しないようにと思って解説した部分が不要になることがある。
文章全体を見て、使うことばを精査する。
話しことばで流れていくときには気にならないものが、単に文字に落としたときには気になってしまうことがあり、わかりにくく伝わりにくくなってしまうことがある。
あらためて新鮮な実感を覚える。
こんな当たり前のことが、わからなくなっていた。
いつかどこかで誤ってきていたのに、気づかず――頭が固くて、心がかたくなであったから、その誤りがわからなくなってしまっていた。
化石化していたということかもしれない。
そういうわけで、今回あらためての書き起こし作業は、まさしく目からウロコ体験となった。まったく新しいものが生みだされるわけではないけれども、”reborn”な気持ちで原稿を整える。
”reborn”、なんて横文字にしちゃって、なにをカッコつけているのさという言い方だけど、生まれ変わりとも再生とも翻訳したくないし、カタカナで書くのも気持ちにズレが生じるので、"reborn"としておきたい。
もっとも、他人から見て、そんなわたしの意識の違いが映るのかどうか、明らかなのかどうかは、わからない。それでも、ちいさな一歩、進化ではないかと。
自分なりにそぎ落とす、そのありかたを見出した気がする。