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注意を払う

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人の書いたものなんて、それほど気に留めることがないのだ
と思う。

文章にも癖は現れる。
一つのスタイルに統一されていれば別だが、
記録にも時折、その記録担当者の「色」とか「雰囲気」が
混じることがある。
でも、いずれにしても、記録にはあまり注意は払われない。

たとえば、わたしが作成した記録を別の人が作成したもの
として確認の返事が来る。
そういうとき、わたしはつい「やった!」と笑ってしまう。
取り違えられていたということは、きちんと
自分の身をひそめられたということだからだ。

会議記録を「だれが」作成したのかということは、
ふつう意味がない。
「なにが」記録されているか、が重要だからだ。
ただ、恣意的な記録になっていた場合には、
「だれが」を追求する必要が生じてくるだろうけど。


あるいは、ある場面において、その人の癖や雰囲気を
踏襲して文書を作成しなければならないことがある。
既存の資料文章に微修正を加えるとか、
1冊の報告書を分担して執筆するとか。
またあるいは、ゴーストライターというほどではなくても、
そのひとらしさの感じられる文書のたたき台をつくる、
ということも。

通しで読んだとき、おや、というつっかかりがなく、
統一した雰囲気になじんで作れたときは、
小さな達成感がある。

そもそも他人の文章の癖や雰囲気をとらえるというのは、
「慣れ」みたいなものであって、 皆が皆意識しているようなことではない。
一種のモノマネとでもいうべきか?

ともあれ、特段の注目をあびることなく、注意を払われることなく、
すっと読み流してもらえる文書を作れたらしい、
ということがわかったときには、ひとりそっとほくそ笑むのだ。

変な癖。

(2020年8月20日・Facebookノート投稿)
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他人の名前で発出する文書には、もう少し気を遣ってほしいなあ、と思ってしまうことがある。
それがたとえば、文書の右上にそれなりの肩書の責任者の名前が記されるような紋切型のビジネス文書であっても、だ。
もしもそこに体裁の乱れや誤字・脱字など何らかのミスがあれば、「恥ずかしい」ではないか。
もちろん、そんなのご本人が作成したものではない、ってことは当然わかることだけれども――それはそれで作成者ひいては部署や組織としてレベルを疑われてしまうことにつながるのでは?と思ってしまうのだ。

体裁、とりわけ改行位置については注意を払うことが多い。
単語の途中で改行されないように、という心がけはあるけれども、ここのnoteのでは自然に文章が続いて、次行に繰り越されていることが多い。
SNSでは投稿する内容によって改行位置を意識するけれど、ビジネス文書でも妙に気にしてしまう。
もちろん文章の流れによっては気にならない場合もあるし、どうしようもできないこともある。ただ、単語によってはこれはここで区切ってしまっては……と居心地が悪くなってしまうものがある。

人が作成したものをチェックするときも、「これは仕方がないか」と思えることもあれば、「いやいや、ここは考えて切れないようにしてよ」とブツブツ思ってしまうこともある。
文書自体にあまりに未熟さを感じてしまうときなど、ビジネス文書だからといってあまりに雑ではないかと寂しさを覚える。
書くことにもう少し丁寧に向き合ってほしいと感じてしまう。
今日もそんなことがあった。

おおげさかもしれないけれども、その文書が発出される肩書の人の裏方として作成する側は、文字・ことば・体裁に注意を払ってほしい。
だれに認められるわけではない。形式的なもので、あっさり受け流されるものかもしれない。
けれども、プライドを持って、向き合ってほしい。
そこにこそ。

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