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一線

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しんどい始まりの月曜日になってしまったな、
と思いながら帰ろうと車に乗り込んだとき、
いまは遠くで働いている中学時代の同級生から
メッセージが届いた。

くたびれた、すりきれた心の内を表してしまうような
投稿をわたしがときどきはさみこむから――
そんな様子を垣間見て、また共通の知り合いから言われて、
なんとなく気にかけてくれていたらしい。

不思議。
なんともふんわりとした慰めをもらう。

わたしから彼女に個別になにを話しているわけでもないのに、
業務が変わって大変そうな様子、と言われてなぜだかすぅっと、
落ち着く気持ちになったというか。

自分の知らないところで気にかけてくださっている方がいて、
祈ってくれている方もいる、っていうことを知る機会があるというのは、
なんてうれしいんだろう。

また、それとは別に、前に一緒に働いていた人からも、メッセージが届いた。
夏のご機嫌伺い、ご本人の近況報告。
彼女はFacebookもやっておらず、折々にメールのやりとりをするだけなのだけど、なぜかこの日にメッセージをくれた。
なんてことはないのだけれども、気持ちがふっと抜ける。

思いがけないときに、思いがけないひとからのちょっとした気遣いってなんてうれしいんだろう。
忘れられていないという、ちいさな喜びがある。

二つのメッセージのおかげでふわっと気持ちが抜けて、
はてさて、なにが大変なんだろう、大変なんだろうか?って妙にすうぅっと冷静になる。

大変――大変なのかな。

大変、というか、ちょっとは苦しんでいるかな、と思う。

なんだろう。

疲れていないわけでもないけれど――疲れとはちょっと違う。
自分が思っている以上に、なにかがうまく嵌まっていないだけ。

たぶん、今まで「うまくやっていけていた」と感じていたことが、
うまくできなくなっている。
ただ、それも、「今までうまくやっていけていた」とするならば、
まわりがわたしに合わせてくれていたからなのだ。

「まわり」――とは、だれでもいい、というわけではない。
頭数がそろえばいつだって同じ結果を生む、というものではないから。
いつだってそのひとたちの資質による。

そういう意味で、「まわり」にたいそう恵まれていたのだと思う。
たとえ「今までうまくやってこられた」 ということ自体が、 単なる幸せな思い違いだったとしても、その「まわり」に対する感謝は変わらない。

――ということとは別に、分かり合えない距離をもった相手も必ずいる、ということをそろそろ受け入れないといけないのかな、と感じさせられることがあった。
わたしはわたしなりに、本気で相手と向き合って、分かり合おうと目指していたつもりだったが、つもり違いだったかもしれない、と。
いいひとぶりっこも、そろそろ限界だということか。

そう。
一線、ってやっぱりあるんだろうなあと思うようになってきた。

一線――自分とその他の陣地を作る線で、現世とあの世とまでは言わなくても、境界になるもの。
自分の側の陣地にいると考えている人たち(とてもまばらだけど)と、
そうでない多くの人たちを分ける境界はたしかになんとなくもっている。

自分が120%以上努力しているとは言えないくせに、ちょっとしたことで心が乾いたり折れそうになったりして、境界をもっとはっきり持とうかななどと考えをめぐらすようになっていた。

ここ最近そんなふうだったので、ふたりからのメッセージは、そのタイミングにちょっと驚いた。
きっと神様が閉塞感漂うわたしを哀れに思って、ちいさな助けを送ってくれたのだろう。

思えば、そんなことが結構ある。
ふとしたときに思いがけない人に助けてもらっている。
日々の接点なんてほとんどまるでなくても、物理的な距離は関係ないらしい。
なにか見えていたか、どこかで聞こえていたかのように、声をかけてくれる人がいる。

――というわけで。

まだ見捨てられているわけではない人生みたいだから、
まだもう少しだけ、正直な人間関係をつくっていくことに期待をかけていこうかな。
「一線」はゆるやかなままにして。

(2016年8月3日・Facebookノート投稿)
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「しんどい始まりの月曜日になってしまったな」なんて出だしだったのだな、この日のノート投稿。
そういえば先日(9/30)のNHKのバタフライエフェクトは、「I DON'T LIKE MONDAYS 月曜日の物語」だった。なかなか興味深い内容であったが、自分のこれもまた「月曜ゆえのなにか」だったのだろうか。

ブルーマンデー、なんて意識はあんまりしたことがなかったけど、他人にとってはちょっと心配になってしまうような(?)投稿が、もしかしたら月曜に多かったかもしれない。

それにしても、あんまり自分では意識していないわりに、正直にいろんなことをつづってしまっているようだ。
当時も今も、それは変わらない。

このときは、自分のありように疲れて、人との距離感を持ちたくなってしまったみたいだね……。
他人から見たらなんのこっちゃという話なんだろうけれど。

こういう過去の投稿を見ても、妙に共感することがあるのは、人に対してなんらかの”境界”を設けようとしたくなるんだなあ、という点だ。
距離感を持ちたくなる?
つづることによる自分の情報公開(ある意味ではそう言えると思う)については、ボーダーが低いくせにね。

いろいろな形での「一線」がある、ということかな。

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