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たどる

職場での散歩は、自分の心を落ち着かせるためのひとつの行動である。
おもに朝散歩だけど。

さいわいにも、花と緑に恵まれているので、四季折々はもちろん、一日のなかでも時間によって見えかたが変わる楽しみがある。
日ざしの強さを映す色や影、空とのコントラスト、日の傾きで生まれる色合いは、とても瞬間的なもの。
無機質なものとそのかたわらにあるいのちあるものたちに目を向け、気にかかったところで立ち止まる。

ちいさな黙想時間も与えられる。
気になったものを記憶の断片としてとどめたくて、撮っておく。
スマホで。

ほんとうは、インスピレーションがあったものの印象、イメージは、じかに見たことをそのまま心に、脳裏に刻んでとどめておくのが、いちばん。
でも同時に、見たものをそのまま、そのとおりにおさめて残しておきたい、とも願ってしまうから。

もちろん、そのとおりに写せることはない。
わたしはテクニックを駆使することもできないので、ただの流し撮りだ。
それでも、季節を追いながら、風景の中の一部をとらえる楽しみを味わうあいだに、心がなだらかになっていくのを感じる。

撮影技術――シャッタースピードとか露出、ピントの合わせ方など――について、きっと必要な知識と技術だとは感じながらも学ぼうとしていないのは、従来のものぐさな性質からである。
フィルムカメラの時代に、ちゃんと修得しておけばよかったのだろうなあと思う。

フィルムカメラのように、チャンスをうまくつかめたのか逃してしまっていたのか、現像するまでわからない――というドキドキ感も、デジタルカメラ、スマホに移行していって、ちょっと変わってきた。
むかしだって、合成写真をつくる技術はあったわけだけれども、今はもういくらでも加工できる時代になってきた。
そこに真実だけが写っているのか、あるいは捏造されたものではないのか、という疑問が浮かぶようなことも生じている。

そういうわけで、撮ったものを切り取ったり色味をドラマティックに変えたりという、加工や編集をすることには、若干の抵抗が生じていた。
自分の未熟な撮り方で、写りこませてしまったものをカットすることはあっても、それ以上のことをするのは、自分自身が見たものそのもの、事実を歪めることのように思えるから。

写真には、事実を正確におさめる・記録する役割がある――という、どこか漠然とした思い込みが強いのだろう。
だから、空のあざやかさや昏さを際立たせたり、水の流れを雲のように見せたり、輪郭がやたらに際立っていたり……といったような写真は、鑑賞するのもちょっと苦手だった。
しかし、それらが単に見栄えをよくするためだけではなくて、「自分の見えているものを象徴的にあらわす」ための作業でもある、と思えるようになったのは、わりと最近のことだ。

絵画やイラストと同じかも?

精密な静物画、あるいは抽象画、似顔絵だって忠実なデッサンのようなものもあれば、特徴をとらえてデフォルメする、他の生き物になぞらえる――使う道具(絵具、色鉛筆、鉛筆、ペン、紙etc…)だってさまざまだ。
さまざまなスタイルがあることを受け入れているのに、写真についてはなかなかそういう理解がもてなかった。

 「自分の見たものを、必ずしも写実的にではなく、イメージとして表したい」
 「イメージとして表したものを、受け止めてもらいたい」

まだ完全に理解しているとは言えないかもしれないけれども、写真にも同じ意図があり、技術という形で工夫をしているのるかも、とは思えるようになっている。

今後、自分が「見たものを見たように伝えたい」と思ったとき、そういう技術を駆使して表現してみるかどうかはわからない。
「世界がわたしにはこう見えている」ということを表すのに、ありのままの写し方(構図や色味)だけでは表せないと、心底くやしく思い、「こういう風に見えていることを伝えたい」と強く願うことになったら、そういう技術、あるいはテクノロジーを活用することを考えるかもしれない。

いや、すでにお世話になっているか。
最近のスマホカメラの機能もあきれるくらい良くて、そもそも自分の力量かどうかなんてよくわからないくらい、フォーカスだって夜景だって自動で対応してくれている。
ありのまま、オリジナルなんてことを偉そうにぶっても、ね。そういう機能を備えたものを使っている時点で、さほど「未加工」「ありのまま」でもないかもしれない。

閑話休題(すっかり脱線話がふくらんでしまったが)。

そんな思いをかかえながら、空の下を歩いて、目線を遊ばせ撮っている。

――あと3年もしたら、この職場ともお別れ。
そうなると、毎日あたりまえにながめていた風景を目にすることがなくなり、あたりまえではなくなる。

だから、というわけではないが、スマホ片手に歩きながらながめる。スマホカメラで撮っておく。
あとで記憶をたどるよすがにするために。

どう残しておけば、たどりやすいのだろうか。
振り返ってたどるには、どうするのがよいだろうか。

「たどる」。

もしも。
もしも、そんな気持ちになったなら、壁一面にこれまで撮った四季折々の風景を、クローズアップした草花、芽や土などを、あるいは濡れた路面や水たまりなどを、一堂に会させることができたらいい。

散歩のあしあと、道のりをたどれるように。
そのとき目にして心にとめたものどもを、平面の世界で追いながら記憶をたどれるように。

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