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疾走の先に

雨だったせいか、あるいは連休前だったせいか、
その日の朝の通勤路は、いつものところがいつも以上に混んでいた。

ゆるやかな坂道の先に連なっている車のテールランプを目で追って、
「ああ、わたしもどこか遠くに行きたい」と感じる。
このテールランプを道しるべにしてもいいんじゃないか、と。

そのとき、車道の脇を、カッパを着て疾走する自転車が抜けていった。
女子高生だ。
フードが向かい風にあおられて、頭と顔はすっかりびしょびしょの様子で、
メガネも水滴だらけだと思うのだけど、でも自転車で行くんだよね。
水しぶきがきらきらと散っていった。

すごいなあ、雨でも自転車で疾走通学。
なんだか胃もたれしてしまっている自分には、彼女の姿が雨でもまぶしい。

胃もたれは、前の日の遅い時間の晩御飯のせいだ。
やはり遅い時間にいただくのはよくない。
消化エネルギーがもはや追いつかないのだからね。
疾走に追いつかない自分の現実を意識する。
車がのたのたと進む具合は、自分の体の重さにも似ていた。

雨の日の車の列。
今はこんなに一本でどこかひとつの場所へ続いているように
見えているけれども、そうではない。
いずれそれぞれ自分の目的の道へ分かれ分かれしていくのだ。
「どこか遠くに行きたい」というゆるやかな願いは、
現実行くべき場所に向かうために曲がる角で、断ち切られる。
少なくとも今日は。

でも、まぶしさの一端を感じさせてくれた女子高生の横顔と、
はためくカッパの裾を思い、立ち止まる。

実のところ、あの彼女もたしかに自分の目的地に向かっていたわけだが、
渋滞の列を追い越していけたところに不思議と自由を感じたのだ。
そう。
あの疾走の先には「ちょっとまぶしい目的地」があるような気がする。

いくつもの行き先の中に、明るい目的地があることを感じさせてくれて、
ありがとう。

(2019年4月 Facebookノート掲載)
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読み返してその日の光景が思い出されて――いまも変わらない日常、つまり
相も変わらず通勤中は「窮屈な」思いを味わうことが多い。
このときの女子高生のように、ただ一つの目的地に向かって疾走できる勢いを持つことは、なかなかない。
せいぜい大股で歩くくらいのことで、小さな行動範囲の中でうろうろと過ごしているようなイメージだ。

でも、この投稿を読み返して、このとき女子高生を見送ったときに味わった、ちょっとしたすがすがしさを再度感じることができて、少し気が抜けた。

気が抜けたことで、どうしてそんなに張り詰めた、切羽詰まったような気持ちでいたんだろう、と思う。緊張というのか、焦りというのか、何かに追い立てられている気持ちに――。
単に、自分で自分の行動範囲を狭めてしまい、息苦しくなっているだけなのかもしれないけれども。

一心不乱にその先を見つめ、よどんだ空気をペダルを漕いで振り切って、目的地に向かっていた彼女の姿を、今またうらやましく感じている。




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