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ASK

「人に尋ねられるか」

――というのは、案外重要なのではないか。

道について、
探しているものについて、
店頭に並んでいない(と自分で思う)ものについて、
他人に・店員に、聞く。

たとえば、いつも行く店は、カテゴリー別の配置もディスプレイも、なんとなく習慣で頭の中に入っている。
めったに行かないところだと、そのカテゴリーやジャンルがどこにあるのかから始まり、お目当てのものがどこに並んでいるかを突き止めるのに、多少の時間がかかる。
いつものお店であっても、いつもの場所にないときにあきらめずに在庫を確認する。

結婚してまもなくのころ、うちのひとは案外そういうふうに聞かないんだな、と思ったことがあった。
「ない・ない」と思って探しているより、店員さんに聞いてしまったほうが早いのに。
そう思うわたしが結局、聞きにいく。
その後もときどきそういう場面があるのだけれども、だいぶ慣れてしまった。
若いひとたちにはそういう傾向があるらしいよ、と言われたことがある。
もはやそんなに珍しくはないけれど、うちは年の差婚なので、なるほどそういうものかなと思ったものだった。

今朝、職場で。
指定の表紙をつけなければならない提出物の準備で、その指定の表紙が購買に売っていなかったと言ってきた学生が二人いるという話が報告された。
購買ではすでに手配済みで売っているはずだったし、確認したらたしかに売っていた。ただ、それを必要とする学生は最大11名とわかっていたので、あえて場所をとらないよう店頭には並べていなかったということであった。

当然並んでいるべきという感覚もわからないでもない。
この時期の提出物としてはイレギュラーなので、他の文具品やテキストと違って常設されているのがあたりまえのものではない、というのは我々の常識であって、彼らにとっては当然並んでいるべきもの、というのが常識なのだろう。

しかしながら――それなら、なぜ。

「なぜ聞かない?」

というのが、我々の素朴な感想であった。
見える範囲に目当てのものがなければ、聞けばいいのに。
そこに目当てのものがあっても、必要に応じて「在庫はこれですべてですか」とまで聞いてしまうこともあるのに。

あるはずなのに、ない。
そう思うのなら、「ないんですか?」と聞いてもいいではないか。
「あると聞いていたんですけど」と。
そう、少々失礼に聞こえたとしても、そう聞いたっていいではないか。

でも聞けないのか……と嘆息する。

人と話せないわけではない子たちと思う。それが証拠に窓口には来て話ができる。
なのに、なぜかはわからないが、聞けないのか。
もちろん、性格的にとか緊張するタチとかで、できない人がいるのもわかる。でも彼らは違う。

ひょっとして、探しているものやその場面によって聞いたり聞かなかったりと使い分けているのだろうか?
”必要に応じて”という使い分け――いや、必要を感じているかどうかその度合いによって?

とはいえ、行くべき道のりに迷っているとき、手に入れたいものを探しあてられないときは、だれかに聞くのが手っ取り早いし、当然そうするほうがよいと思ってしまう。

「人に尋ねることができる」

それができるかできないかで、本当の意味でよりよい”タイパ”が実現できるのでは?

――と思ってしまうのは、年のせいかしらん。

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