そこにいけば出会えるもの
(2016.8.22Facebook投稿分を掲載)
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久しぶりにスケッチブックに向かった。
えほんを描くために。
お恥ずかしながら、
だれか・なにかのために、とか、
だれか・なにかに触発されて、とか、そういうことで
ようやっと腰を上げることができる。
今回は、8月3日に玉川テラスの講座でみゆきさんのお話を聞いて、
描いておきたいなあと思わされたことがあったから。
老舗として300年続いてきたのはなぜか、について、
「同じ場所に店を構えていること・同じものをつくりづけていること、
その繰り返しなのではないかな」と、あるお客様のエピソードから
話されたことが印象的だった。
お客様にとっては、
「そこにいけば年月を経ても出会えるもの」であり、
「変わらずにそこにあるもの」。
お店側にとっては、
「年月を経ても求めてこられるもの」であり、
「変わらずに置いておこうと思うもの」。
さまざまな時代で、お菓子一つ一つを介してお客とお店が
共有できる 思い出もある。
たとえお店側がそのことを知らなくても、お客が求めるお菓子には
きっと、なにかの「思い」「思い出」がある……。
みゆきさんの紹介してくれた、そんないくつかのエピソードを、
そこに共通してあるエッセンスみたいなものを、なにか自分の手で
残しておきたい――描いておきたい、と思った。
“そこにいけば出会えるもの”、をテーマにしたというとおおげさだろうか。
実際にはどうってことのない出来栄えだ。
それでも、下書きも色付けもやっぱり幸せな作業で楽しかったし、
どんなに拙くても、どのページもいとおしくてたまらない。
なにかに触発されて描いたもの、ってやっぱりうれしい。
ありがとうございます、みゆきさん!
――というわけで、各ページの写真を撮っておく。
いつかリライトするかもしれないし、続編(?!)を描くかもしれないから。
以前はカラーコピーをしていたのだけれども、色がその通りに写らないので、それなら写真のほうがまだよいかも、と。
いずれにしても、なにしろこの世に1冊きりのえほんだから、
静かに名残を惜しみつつ送りだして――送りだしたらFBのどこかで
公開しようとは思う。
インスピレーション――って絶対に失いたくないものなのだけど、
たとえ鈍ってはいても、残っているみたいでうれしかった。
自分にとって大事なココロのエッセンスに触れたときには、
それをなんらかの形で残したいとまだ思える。
贈りたい相手との思い出、そのひとへの感謝を
なにかしらの形にしたい。
見たように写せない写真であったとしても、
拙いイラストであっても、 断片的なちいさなことばたちであっても。
それを組み合わせていくのが、「かるご」の楽しみ、喜び、幸せなのだ。
「えすかるご」の歩みはゆっくりゆっくり。
ときどき立ち止まりもするのだけど、でも、決して引き返したりはしない。
“かたつむり ゆっくりだけど 歩いてる”――からね。
そう、まだまだ、もうちょっと。
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この投稿で書いた、講座帰りのあの止まらないわくわく感は忘れられない。
「これだ!」と思いついて、早く始めたくてたまらず、わくわくわく。
そして、勢いこんで描く――ほんとうに久しぶりのことだった。
稚拙なものながら、Facebookに画像で投稿しておいたのだった。
それからまたしばらく、こういう経験が乏しくなっているなあ、とは思う。
あらためて、自分の才能"talent"なんて、ほんとちっぽけなものなのだ、と寂しくなってしまうんだけど――。
そもそも才能なんていうのも、おこがましいんだろうな。
でも、何かの刺激を受けると、やっぱりまたこういうことが起こるし、枯れきってはいないのかなと感じることもある。
あれから――まだ形にならないけれど、小さくうずくアイディアの種みたいなものはある。もう何年越しになるのか、ちょっとしたときにひょいと浮かんでくる「異世界」についての種。
きっかけは小泉凡先生の講義で、小泉八雲と松江とアイルランド。
これはまだまだ未熟な状態ではあるのだけれど、なんとかつかみ上げて育てたい。あるいは、いつか何かの形で勢いよく飛び出してくる日があるようにも思っている。
なんてことのないときにも、「ああ、やっぱりこれが好きだし、どんなにのろのろとしていたとしても、万人に認められなくても、死ぬまで続けていきたい」と思う、大切な自分の一部なのだと実感することがあるし。
この投稿を読み返し、そんなふうなことも思いめぐらしたのだった。
「ゆっくりでいいよ、えすかるご」と標語めいたものを頭に浮かべつつ。