タラントン
とある日曜日に、聖書にあるタラントンのたとえ話※が想起された。
※ある主人が3人の使用人にそれぞれ5タラントン、2タラントン、1タラントンを預けて留守にする。留守中、3人のうち5タラントンと2タラントンを預かった使用人は、それを運用して倍にする。でも1タラントンを預かったひとりは、失敗したときの叱責を恐れて、運用を試みず地中に埋める。
帰宅した主人は、結果を聞いて運用して預けたものを倍にした二人の使用人についてはより多くのものを管理させることにした。しかし、1タラントンを預けた一人については預けられたものをじゅうぶんに使わないこと、自分で運用しないなら銀行に預けたほうがましであったと非難した。
(参照:新約聖書マタイによる福音書25章14-30)
これは、天から与えられたものを(結果は出なかったとしても)じゅうぶんに運用することの大切さがいわれているというお話。
タラントンは英語の「タレント(Talent)」の語源でもある。
今回連想したのは、まさに「埋める行動」をしがちな自分たちのこと。
神からいただいた賜物を運用する心づもりの足りなさ、ということを思うわけなんだけれども、心づもり以前にすぐに埋めてしまいがちな傾向にあるこの頃であることを実感したのだ。
ボランティアでかかわっている子どもたちのための活動のこと。
大きな行事の実施可否を検討する事態になると、やたらに「安心安全を確保するために、やらない」という選択肢を出す傾向が強くなってきた気がする。
即座に「やらない」と決定されるわけではないけど、そういう選択肢がたやすく提示されるようになった、ということ。
地震や自然災害の起きる頻度は、たしかに高くなっているように感じる。
――行事の実施最中になにかあったら?
――預かっている子どもたちを、どう責任もって守っていくのか?
――安全確保について自信をもてない状態では、実施するのは怖い。
――子どもたちだって、親だって不安なのではないか?
もちろん無謀はよくない。
いのちの危険を感じるような行動をしてはいけない。
もともと引率を伴う行事は、安全確保は第一優先事項だ。
自然災害の影響が想定されるときには、慎重な判断が必要でもある。
引く(中止にする)勇気が求められることも、たしかにある。
でも――すべて完璧な人材、完璧な備えがなければGOできない、という思考に流れていきたくはない。
そうしたらいつまでたっても実施できないし、この環境の変化をしていく世界で、もはや活動的には生きていくことができなくなってしまうではないか、と感じてしまうのである。
こういうと、安全確保を無視したような、浅はかな思考・行動パターンのように思われるかもしれない。
ただ、自分の中に引っ掛かりがあるのは、「安全確保第一優先」がどうも便利に、いいように使われているように思えてならないからだ。
引率実施する自分たち自身が不安だということは、決して恥ずかしいことでも悪いことでもない。
「安全確保第一優先」
たしかにそれは正しい。
そして、正しいことを言われたら、だれも何も言えない。
「何もしないこと」は、たしかに安全といえる部分があるけど――けど、それなら、なんのための毎学期の活動だろう?
直接の準備ばかりではないけれど、その行事を一つのマイルストーンとして、どの日もすべて「そなえ」の積み重ねとなる活動であるはず…………。
もしもそうでないなら、ふだんの活動のありかたを見直すべきなのではないか?などと考える。
これから先、日本はどんどん暑くなるのだろうし、自然災害だって増えていくのに違いない。戦争だって遠い国の話ではなくなるかもしれない。
人間がもはやコントロールできなくなる環境の中でいかに生きるのか。
予測不能な世界に向かいながら、いかによりよく生きるのか。
なにを、どう変えていけばよいのか。
すべき「準備」はそこにもあるのでは、などと考えてしまう。
結局のところ、「準備8割・本番2割」のモデルがこれにもあてはまるんだ。
本番あるいは有事のための準備活動を、じゅうぶんにしていくということ――。
そして――当然のことながら――こんなふうに偉そうにほざいている自分自身は、ことのほか基本的な準備不足・行動不足が明らかなのであった。
恥じつつ自戒をこめて、たやすく埋めない選択をするために、そなえていかなければ。