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色をのせる

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飛行機に乗る前に、ふっと思い出した。

中学校のときの美術の時間、学期一番はじめの授業だった
と思う。

B5だったかA4だったか、一枚の白紙が配られて、その中に
タテとヨコ、紙いっぱいにそれぞれ好きなように線を引いてみて
と言われた。
タテヨコそれぞれ6本ずつか、何本ずつだったか――。

線はまっすぐでなくてよい、自由に引いてみなさい、と。

そうして、いくつものマスが見えてきたところで、
次はいくつかランダムに選んで塗りつぶしてみよう、
と言われた。

ただのタテとヨコの線の交わりなのに、
おもしろいでしょう、
いろんな形の図形が見えるでしょう。

と先生は言った。

――そういう意味では、わたしにはちっともおもしろくなかった。

なぜならわたしは自由気ままな線を引かなかったから。
ほぼ直線、というのをタテにもヨコにも引いていて。
だから塗りつぶすマスも、ほぼ四角になったので、
先生の言う、「いろんな図形」ではなかったから。

わたしには美術的センスはないのだと、ショックを受けた。

机のあいだをまわった先生も、ちらと眺めて困ったのかもしれない。
素通りだった。

規則性や規律性に、独特の整理されたうつくしさを感じることは
あるけれども、なによりも重んじているというわけではない。

でも、このとき「美術」という、ひとつの自分の関心分野で、
みんなのように自由気ままに線を引くようなセンスがなかったこと、
そんなふうにセンスがないとこれまで感じることがなかったのに、
でも、ないのだと思い知らされたこと――それがショックだった。

だれに特別な評価をしてもらった経験もないし、自分の中に
根拠のない自信――というほど、自信があったわけでもないが、
でもいくらか、どこかに期待はあったのだろうね。
自分にはセンスがあるんじゃないか、って。

そういえば、うんと小さいころ、親戚のおじさんに「将来の夢は?」
と聞かれて、「作家と画家」と答えたことがあった。
「そりゃ両方は無理だね」
そう言われて「両方は無理」なのは、どうしてなのか、さっぱり理解
できなかった。
でも、どちらか選ばなければならないなら、作家のほうかな、と。
遥か時代が進んだ今、マルチタレントは珍しくないけどね。

とはいえ、そんなことを言われても、物語を考えたりすることと一緒に、
絵を描くこと・色を塗ることはやはりずっと好きだったし(色鉛筆で)、
小学校のときは水彩画も好きだった(綿棒で色を塗るのがとくに)。
ひところは油絵にも憧れた――色ののせ方がおもしろそう、と思ったから。

好きは好きだった、中学校の美術の時間にそんな衝撃を受けるまでは。

もちろん先生のせいでもなんでもないのだけれども、自分で
「センスがない」と感じてからは、美術の時間はとくに面白いと
感じることがほとんどなくなってしまった。
デッサンももともと好きではないし、美術は絵ばかりではなく造形も
あり――不器用なわたしには苦手な課題だった。

モノ作りは好き。
でも、好きなのと一定のクオリティに仕上げられることは
必ずしもイコールではないからね。
なにより、進度を守る――ことが苦痛でならなかったから。
これは美術だけではなく、家庭科の「被服」の部分にも同じことが
言えた。

今週はここまでやりましょう、来週までにここまで仕上げなさい、
って、苦痛以外のなにものでもなかったなぁ……。

そうそう。
銅板で表札をつくる課題のとき、苗字か名前かどちらか二文字のほうで
つくりましょうと言われた。
どちらも二文字のひとは、あまり複雑でない漢字のほうがいいわよ、と。
私の場合、苗字も名前も三文字なので、どちらにしたらいいでしょう、
と聞いたら、「ああ、別のクラスにもいたわ」と、
「どっちでもいいかな」と言いかけたところで、
「あ・下の名前はひらがなが入っていて簡単すぎるから、苗字で」
と言われ――曲線のない角張った苗字を生み出すために、
銅板を叩くことになった。

ま、これもたいして別に何の悪い思い出でもなんでもないけど、
「美術」という科目に対しては疎遠になったきっかけではあった。
ただ――授業の中でも、色や技法の話はとてもおもしろかったので、
絵を描く、色を塗る、ということは自分の楽しみの範囲ではやめなかった
というわけ。

ちいさなイラストを描く。
色を塗る。
カード仕立てにする。
色を塗る。
色紙の中心に描く。
色を塗る。

そう――。
今思えば謎なのだが、母がファーバーカステルの色鉛筆とパステルを
持っていた。
60色のポリクロモス色鉛筆と、72色のパステルセット。
で、使わせてもらったら――色鉛筆とパステルを組み合わせて
使うのは、 とても自分になじむ感じだった。

でも、この色の乗せ方はパステルの正しい使い方(というのか?)
ではないかな?失礼かな?――誰にということでなく、そうヒヤヒヤしたが、
紙面に色をのせる方法に制限はないだろう、と思いなおす。

それから、ときどきえほんをつくるようになった――えほん、という
カテゴリーに入れていいか、いまだにわからないでいるが――でも、
ともかく「絵」と「ことば」のあるちいさな冊子をつくるようになった。
自分の楽しみとして。
ひとへのちいさなプレゼントとして。

はじめはスケッチブックではなくて、オニオンスキンのうすい
ノートに描いていた。
透けて裏映りする紙なので、ウラオモテおなじ絵にして、
ことばだけ変える…………。
それはそれでおもしろかったけれども、ストーリーとあわせて
いくのには限界があり、しばらくしてから、ちいさなスケッチブックに
描くようになっていった。
Marumanのカラー表紙の、ちょっとスタイリッシュなスケッチブック。

結局、「色」とは離れずにずっと来たらしい。

写真を撮るときも、そこに「感じるもののある色」があるから。
見ているように撮りたい。
同じように、なにか心のなかにまで浸透する色を、なにかにのせて
描いていきたいと感じる。
だから、えほんを描いたり、ちいさなイラストを描いて塗ったりして
きたわけで――。

ふと。
せわしない日常の中で――今回旅に出る前に、唐突に久しぶりなこと
だったけど、せつにせつに、なにかに色をつけて描きたい、と思った。
なにかを描きたい気持ちも。
色鉛筆も鉛筆削りも、下書き用のノートももって出かけようかな、
と何年ぶりかに思った。

そのときはなぜだかわからなかったけれども、飛行機に乗る前に、
中学時代の美術の時間のことを思い出して――なんとなくいろいろと
つながってきた。

そんなわけで――。

ホテルに着いてから、スケッチブックではない、いただきものの、
でも使わなかった「今年のスケジュール帳」を出して、線を引く。
想像力――創造力の欠如を実感した、中学校時代の美術の時間の
ウォーミングアップを思い出して、白紙に線引きを再現する。
当時やったように。

線の集まりであっても図が生み出される、おもしろさを見出せる、
ということを教えてくれようとしていたのだと思うが、うまくそこに
気持ちが合わせられなかった自分を思いながら。

どうやら、今のわたしは、たとえそこにいろんな図形が
見えなくても――つまり曲線や波線をまじえながら引かずに
直線的にしてしまっても、「それがおもしろくない」とは感じることは
なくなったようだ。
おもしろくはないかもしれないが、おもしろさを見出すことが
できるようになったからかなあ?

マス目は窓。
そして、窓からはいつも、いろんな色が見えるものなんだ、って。

それから、ちいさなかたちで、塗りたい色を紅葉の木にしていった。
思った通りの仕上がりにならなかったけど、一本一本持ち変える
動作が楽しかった。

そのあと、カラーチャートみたいに、全色(今回は24色の色鉛筆) を
長方形にして塗りつぶしていった。
尖った先で枠を描き、側面でやわらかく塗ってから、やっぱり 濃く
塗りつぶしてみたりした。
これも小学生くらいのときにやっていた色塗り遊びだなぁ、と思いながら。

とくに何も考えず、たいした絵ではない絵に色をつけてみたり、
えほんの構想の断片メモを書き留めたり。
おかげでなんだか落ち着いたらしい。

どこへ出かけるでもなかったけど、ただ部屋でのんびり線を描き、
文字を描き、色を塗り……。

なにかを取り戻したいと思っていたけど、そうか――これだったんだよね。
最近感じていたのは、なにかが涸れていて、なにかを失ってしまうという、
そこはかとない恐怖。

心をあらわすなにかを描き、色をのせる、
ちいさなちいさな自分の感性。

――とはいえ、 もうだいぶんなくなっているとはうすうす感づいても
いたけど、 そんな自分のちいさな「感性」を取り戻したかったんだ。

守りたかった最後のちいさな宝。
他人にはなんの才能のかけらも感じられないものでも、
自分の中では失ってはいけないなにかと感じていたもの。
そして、失うことがあるなんて思ってもいなかったもの。

心に感じたものをあらわすこと。
描いたり、つづったりすること。
そこに色をつけること。

週末のひっそりした旅の初日は、
昔々の美術の時間を思い出すことからはじまり、
移動のあいだに目にした景色を取りこみ、
思いついたことを断片ながら書きとめて。

そうして、
ゆっくりゆっくり、
ゆっくりゆっくり、
埋もれていた自分の「心の色」が、
掘り起こされてきた感じだった。

この“発掘作業”のことを、いずれカタチにできたらうれしいね。

(2015年12月3日・Facebookノート投稿)
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9年前、函館旅行へ行くときに感じたこと。

空や雲というのは、色を感じるものだなあとつくづく思う。
この思いは、今も同じ気がする。

あちこち散らかったところにメモをするほうが、おそらく性に合っている。
しかし散らかりすぎて探せないのはよくない、と思いたち、フィールドノートを使い始めた。
いいかげんさが極まって、探し物に時間と手間を取られるようになってきたので――アイディアを書き留めておくならここ、としておいたほうが、探し物に時間を費やさずに済む(はず)。

ただ、そうなると急にかしこまっちゃうのが変な癖が出てきてしまうのだが、なんとか言い聞かせながら使っている。
後世に伝わるほど意味のあるものにはならないものなのだから。
汚くていいのだ、メモなんだから使ってナンボ、

呪いを解くように言い聞かせている。

なんの形にもならないかもしれないけれど、とりあえず頭の中に浮かんだことを書き留めたり、ぬりつぶしたり、断片だらけにしていこうと、ほんとにガラクタ集めみたいなことをしている。

見ているように、感じたように色を出すことはなかなかできないのだけれど、それでも思いついたときに色鉛筆でぐりぐりと塗りたくってみたり、
線を引いてみたりとやっている。

そうそう、フィールドノートってちいさな方眼になっている。これにまた、例の中学時代の美術の時間の「マス目」が少し思い出されるわけ。
もちろんこんな細かいマス目だったわけではないけれど――自分は、やっぱり方眼とか四角の窓にはそれはそれでうつくしさを感じるんだな、と。
整然とした人間でないのに、いや、整然とした人間でないからこそ、そういったきめの細かい整然に憧れを覚えるのだろうね。
これはバッハの緻密な音楽に対する思いと同じだ。考えつくされ、意味と祈りを音で表した精確さは、自分にはない感覚…………。

その整然を前に、自分の感覚を傾ける。
身を乗り出すように、耳を、目を、心を傾ける。
少しでも世界を彩れるようにしたいから。

細かく整ったちいさな枠の中から、それでも自分の描きたい色を広げていけるようになりたいと願う、2024年の今のわたしである。

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