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こぶし一つぶん

台風の影響がうわさされる中、千駄ヶ谷駅近くのイイノナホギャラリーで、「第二回京都女将に学ぶ心遣いとおもてなし」に参加させていただいた。

ガラス作家のイイノナホさんと、京都の老舗・笹屋伊織の女将の田丸みゆきさんのコラボ企画特別セミナー。
プログラムは、まずみゆきさんのお話、笹屋伊織のお菓子を間において、そしてお作法を学びつつ、イイノナホさんが心をこめて点ててくださるお茶をいただく――というもの。

すてきなギャラリーの一角が、畳を敷いただけなのにお茶室に!
イイノナホさんのゆたかなシャンデリア作品のある空間の中で、さりげなく隅に据えられた花生けも短冊も、「八風吹不動」の掛け軸もみごとに融合していた。
御苑の柵を正面にした大きな窓の向こうには、人がゆきかう姿も見えるけれど、この中は不思議なほどゆったりとした静謐に満たされて、せわしなさや蒸し暑さとはすっかり無縁になる。

お話
お話は、みゆきさんが、笹屋伊織がお客様との間にかわしてきた、たくさんのエピソードをご紹介くださるもの。
それはいつもながら、あたたかで幸せな物語を追体験させていただけるひとときであり、伝統あるお菓子屋から教えられる「仕事」への姿勢を教えられるひとときでもある。

今回は、かつて働かれていた企業の「お客様第一主義」と、嫁いで経営を担うことになった笹屋伊織の「お客様のご要望にお応えする」という家訓。
これを柱にお話しいただいた約30年前エピソードでは、「ほんとうのお客様第一主義とは」ということを教えていただいた。

娘の結婚披露宴の引き出物として注文される「お客様のご要望」を挟んだ、職人と若女将のお話。

「お客様のご要望にお応えする」と信念を同じくしているなかで、最上の状態でお客様に届けようと働く職人と、お客様のリクエスト通りの(職人にとってはNGの)期日に届けようとする女将。
対立ではあるけれど、怒号が行きかうことはなかったらしい。それはそうかもしれない、それぞれがそれぞれの「お客様第一」に対して真剣だから。

そして、その結末には、なるほどと思わされた。
間違いなく、お客様のもっとも願われた形で、そのお菓子は届けられた。

笹屋伊織の職人として、信念はぶれることなく、ひたすら最高裁上のものをお客様へ届けることを考えて作り続けたことに裏打ちされた”お願い”は、お客様はもちろんだったが、たしかに女将さんという主(あるじ)を思う姿をも感じる一場面だった。

真髄をとらえての本気であればこそ、きちんとした仕事として最上の結果を生み出す――。

言葉にしてしまえば、ごくあたりまえのこと。
ではあるが、あたりまえなことは、もはや”有り難い”ことでもある。
どれだけわたしは、その真髄をとらえて・本気で・共働して・仕事をしているだろう?

お菓子
さて、今回出されたお菓子は、JALの「ふるさとアンバサダー」活動の一環で共同開発された、奄美大島のレッドドラゴンフルーツを使った上生菓子「燦燦」と干菓子「紅玉」

ドラゴンフルーツと言えば、白い果肉に黒い種……のイメージだったので、レッドドラゴンフルーツなんてものがあると知って驚いた。画像検索すると、果肉もビーツみたいな赤さ!
果汁で色付けしたり、きんとん製のほうは果肉も使ったりされているとのことだが、あまり特徴のある味ではないらしく、作り上げるのにはだいぶ苦労されたそうだ。

上生菓子は、色のめずらしさや、ぽってりとした愛らしい形を、お皿に並んだ姿で楽しむ。

順繰りにお作法を教えていただきながら、お菓子も手元にいただく
一つずつ上生菓子をいただく。わたしは練り切り製、母はきんとん製。

琥珀糖はその紅白のコントラストがまたいい。
やわらかい整然と、やさしい存在感。
紅色のほうは、かじったあとの断面をながめてしまった。すきとおった感じがうつくしい。白色はヨーグルトのさわやかさで、奄美の夏空を思い浮かべながらいただく。
ほろりとした甘みとさわやかさを味わう。

練り切り製の「燦燦」は黒文字で切り分けていただく。
職人さんのてのひらで形作られたまるみそのままの、包まれるような甘さを感じながら。

お茶
お茶は、わたしが好きなやさしい、やわらかいみどりいろ。
こまかな泡の中に心遣いがつまっているような気がする。

ガラスの器はすべてナホさんの作品で、一人ひとり違うのも楽しみの一つ。
これまた、みゆきさんにお作法手順をお教えいただきながら、頂戴する。

ナホさんの凛とした姿勢に静かに感銘を受け、それでいて緊張を強いない心づくし。
ふんわりと鼻に抜けていくお茶の香りを感じて、いただいた。

静寂をまといつつも、張りつめすぎていないお姿


感謝
そんなわけで、おもてなしの心のいっぱいつまったお菓子とお茶で、和やかなひとときを過ごした午後。

ほんの2時間程度のことなのに、不思議なほど俗世間からきれいに切り離された感があった。壁一つ窓一つ隔てた向こうにある”社会”も、同じ時間で進んでいるだろうに、そのことをまったく意識せずに、完全に別空間になっていた。しかも閉ざされた感などいっさいなく。

お迎えくださる方々の、「おもてなし」「心遣い」がほんものであるがゆえに、そういうことが起きるんだろうな、と思う。
みゆきさんとナホさんの心映え。
それは、時間と空間を広くゆるやかに結ぶものだった。

おひらきを迎えて、ふと「こぶし一つぶん」ということばが思い浮かんだ。
自分の中に、こぶし一つぶんのゆとりが生まれている、という――あくまでたとえというかイメージなのだが、それくらいの空間が生まれたような感覚だったからだろう。

地味ながら、うれしい驚きがあった。

ゆとりが生まれたことそれ自体の喜びももちろんあるのだけれども、それ以上に、今まさにそれがぽっかり生まれたことに驚いたというか。
ゆとりが生まれたことをこんなふうに感じられるなんて、と。

しみじみと、という言い方は本来そぐわないかもしれないけれど、そういうふうな、静かでじんわりとした速度で、感謝を覚える。

こぶし一つぶんのゆとりを生む、時間と空間。
これを単に「非日常」ということばでひとくくりにはしたくない。
と言って、代わりになんと表現したらよいのかわからない。

ともあれ、この日、小さくとも丁寧に切り分けられた時間と空間を、主催者のおふたりの心映えを感じながら、じゅうぶんに味わわせていただき、ゆたかな心持ちで帰路につけた感謝あるのみ。
ただそれだけ。

こぶし一つぶん。

さて、いつまで大切に持ち続けていられるだろう?


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