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机の上にのぼるまで

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官庁のとある一室へお邪魔したときのこと。
案内を受けて、声をかけて入室するも、
お目当てのかたが見えない。

「はい、はい」

文字通り“書類の山”の向こうから声が聞こえてきた。
しかしその声の主はなかなかあらわれては来ず、ただ「山」を見つめる。

ダブルクリップでとめられた書類が、机の両端に幾重にも、
おそらくわたしの背の高さよりも高く積みあがっている。
なにかあったら容赦なく崩れるだろう。
いったいいつまでに処理しなければならないんだろう?
処理しきれるんだろうか?

日々わたしたちが処理している書類なんて、これに比べたら
わずかなものだ。

でも――とにもかくにも、これだけの書類が集まる場所なんだ。
逆に言えば、これだけの書類を作って回してくる人たちが、
この建物の中にいるんだ、と。
全国の市町村区の一部署の書類までがここに集まってくる、
というわけではないけれども、そういうものを組み込んで含めたものが
積みあがっているとも言える。
あるいは、これから全国津々浦々に示されていく事柄が書かれた書類が積みあがっているとか?


「あ。わたしたちは歯車だ」

唐突に。

ネガティブに使われる“社会の歯車”というのとは、ちょっと違う感覚だったけど。
なにかおおきな歯車を、なにかの本体を動かすための
仕組みのひとつとしての“ちいさな歯車”…………。

別の歯車とお互いに、カチ、カチ、カチ、とかみ合わせていきながら、
ゆっくり大きな歯車を動かしていく。

わたしたちが毎日地味にこなしている作業は、どこかになにかを
積みあげていくことにつながるのだろう。
机の上の、山積みの書類。
どこかでだれかがパソコンのキーボードをたたき、印刷し、確認してもらい、コピーをとって、ホチキスで綴じたりクリップで束ねたり。
そうして、しかるべき決裁の流れにのせる。
それぞれの場所でまとめられた書類が、流通よろしく中継ポイントを経て、
定められたコースに従って、最終的にはどこかの机の上へ行くのだ。

そんなイメージがよぎり、一瞬時が止まった気がした。

ここの、この机の上ではなくても、そもそも机の上がゴールではないとしても、ゆくゆくはどこかに積みあげられていくなにかのために作業をしている人たち。
電話をしたり調べものをしたり、書いたり入力したり……。

机の上にのぼるまで、送り出されるひとつひとつのちいさな営み。

建物の中で、 部屋の中で、地道に日々を過ごすひとりひとりの姿が、
顕微鏡をのぞいてズームしたみたいに鮮明に思い浮かび、
鳥瞰図的には自分もまたそのようなひとりだと感じる。

机の上にのぼるまで――。
決裁されるそのときを待つために、きょうもまた地味に地道な働きは、
この世のどこででも続くのだろうね。

どこかの、なにかの、机の上にのぼるまで。

(2016年10月25日・Facebookノート投稿)
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そういえば、こんなことあったな、と思う。
自分の決裁箱が山積みになるもののレベルとは、段違いだ、と感じた記憶がある。

決裁箱の積み重なり、書類の山というのは、ほんとうにマンガみたいな光景だった。
とはいえ、現実にあるからマンガなどにも描かれるのであって、「マンガみたいな」というのはおかしな言い方になるのだけれど。

おおきな一般企業でも、もちろんそういう光景があるんだろう。ただ官公庁の場合は、そこに積み重なっている書類の行方が、ゆくゆく自分たちの生活にかかわっていくのような感じが強い。
書類の内容はもちろんわからないし、直結してこれ!というものがあるわけではないけれど、ここは国の舵取りの一翼を担っている場所だ。だから、やっぱりそれはどこかでちいさな自治体に暮らす自分たちの生活にもつながっているような気がしたのだった。
つまり、自分たちの生活圏から上げられていくなにがしかのプランや要望が、取捨選択の波にもまれながら、ごくごくわずかにでも、その最後の書類の山に到達するものがあるではないか――ということでもある。
鮭の遡上のようなイメージすら浮かんで。

しかし、それを今同じような感覚を持ちつつも、なんだか無気力に脱力するような思いにとらわれる。

最近、さまざまなかたちで、自分の中の減衰をいろいろ感じていることもあるからだろうか。
他人様(ひとさま)の無関心な――と言っては言い過ぎか、省エネな業務姿勢に触れることが多いからだろうか。

自分自身の減衰をそこに反映してはいけないのに、自分の周りにいる人と同じような勤務態度の人がいるかどうかなどわからないのに、やる気があるのかどうかと懐疑的に不安視してしまう。
果たして、ほんとうにあの山の中にある書類に、すべて目を通されることがあるのだろうか、という疑問を強く感じてしまうのである、今のわたしは。

あの当時だって疑念がまったくよぎらなかったわけではないはずだ。ただ、もし持ったとしても、ここに至るまでの長い道のりに思いを馳せ、さすがに国の組織なのだから最後は手抜かりなくきちんと見ていてほしい、と願う思いがより強かったに違いない。

今は、期待をしてはいけないような思いがよぎってしまう。この国自体も大丈夫だろうか、と漠然とした不安や疑問を抱えている。

ああ、そうして衆議院議員選挙が始まるね。

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