異界との共生
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小泉凡先生(島根短大では「妖怪学」をご担当)の単発講座があると聞いて、藤沢の朝日カルチャーへ。
母と母の友人たちも一緒だった。
”小泉八雲と水木しげるの世界観 ――響きあう妖怪観をめぐって――”
小泉八雲と水木しげる――たしかに通じそうだ、とは思う。
体の一部をなくしていること、
幼少期に語り部に出会っていること、
不思議な体験をしていること、
アンデルセンを愛読していたこと、
子育て幽霊の話を好み着想を得ていること……。
Coincidence?
講座の中では、八雲の生地レフカダ島や幼少期を過ごした
アイルランド、 松江の風景なども紹介された。
レフカダ島と松江の風景、うすぼんやりとかすみがかったような
雰囲気がたしかによく似ていた。
そうそう、宍道湖とレフカダの湾でとれる名産品はウナギや
スズキだそうで、これまた共通しているのだとか。
場所は変わっても、八雲は同じような不可思議な事々、
物語たちに「語る人」を通して出会ってきた。
水木しげるもそうなのだろう。
八雲はこんなことをチェンバレンに書き送ったそうだ。
一方、水木しげるは――
反人間中心主義、というのだそうだ。
この世界は人間社会だけでは完結しない――ということ。
小泉八雲は再話というかたちで、
水木しげるは絵として描くかたちで、
目には見えないもの(見えにくいもの)の存在を
浮き彫りにしていったのだね。
凡先生がしめくくりに、二人からは
「異界と共生できる社会が幸せ」というメッセージを
発信されているのだと話された。
異界と共生。
カチッ、とどこかでとってもしっくりきた。
これまで自分の中にもやもや落ち着かずにかかえていた、
なにかの正体がはっきりしたというか。
クリスチャン的ではないことだろうけど―― でも、 アイルランドが
ケルト信仰を迫害せずにカトリック教国に なりえたように、
「異界との共生」はあり得るのだ。
「異界」は背中合わせに必ず存在している。
それなのに、その「異界」への旅をすっかり忘れてしまっていた。
たとえば、わたしにとってアイルランドのCarrowmoreは、
「かつてたしかにここにいた」という記憶を感じ、まさしく「異界」を
意識させられる場所である。
が、すっかりおとなしく閉じ込めつつあった最近だった。
心に旅をさせず、異界の存在を忘れ――なんとなく、非現実的な
ことだからとか、逃避なんじゃないかとか思ってしまい、
「異界」を避けなければ日常をすごせない、
やるべきことをやれない気がしていた。
違う、そんなことないんだ。
むしろ逆かも。
異界を意識していなければ、日常を過ごせない。
……。
……。
……。
スダジイという大好きな木の前に立つといつも、 水木しげるは
長いこと話をしていたのだとか。
わたしもCarrowmoreのかわいい石とは、そんな感じだ。
わたしの日常ではない、でも、わたしの一部である異界が、
あの場所、あの石にはある。
それを考えるだけで、心になにかよい刺激が与えられて、
元気になる。
物理的には遠いけれども、そこに思いを馳せるだけで、
涙が出そうなくらい心にしみる、なんとも言えない不思議な
あたたかいようなものがあふれてくる感じ。
幸せなインスピレーション、とでもいえばいいのだろうか。
わたしが異界をもっとも身近に感じるアイルランドには、
しばらく行く資格がない、と思っていたけど――違うね。
そういう考えは捨ててしまおう。
資料の最後に紹介されていた水木しげるのことばを読みながら、
ああ、そうだよなぁと共感する。
目に見えないものを思う。
目に見えないものとも生きる。
窓の外を見たら、雨が上がっていた。
重たい雲の切れ目から、明るい夕暮れのはしっこが見えた。
あそこにも、異界の入口がある。
――さて、帰ろうか。
(2016年7月16日・Facebookノート投稿)
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ずっと「ここではないどこか」への興味は続いている。
小さいころに出会った『ガリバー旅行記』『ナルニア国物語』や『はてしない物語』など、「ここではないどこか」へ行けるお話には心惹かれるものが多かった。
人間が考えた物語だけではなく、日本の昔話のような、伝承物も同じ。しかもそういった言い伝えは、洋の東西、時代を問わず、世界のあちこちにある。
妖怪とか幽霊とか、「ふだんは目に見えないけどいる」とされているものの存在を大事にしていることも同じなんだろう。
ひとはいつでも「ここではないどこか」「見えないなにか」の存在に憧れや畏れなどを抱いているというか……。
少なくとも、自分は水木しげるの思いと同じかも。
背中合わせか、ぴったり隣り合わせかわからないけれど、確実に在ると信じている。
ただ、自分の中になにかしら澄んだもの・清いものをもっていないと、そういうものに出会えない、触れられないという思い込みがある。
なんらか物語の影響が強いのか、勝手にそんな縛りをかけている。
つまり、今のような荒れた心では、覗き見ることもできない気がしている。
それでもなにかを期待して、葉っぱの中にたまる露の粒、道のくぼみにたまる水たまり、夕日をいっぱいに受けている広い壁や、階段の片隅なんかを、そっと見つめてしまう。
なにか割れ目のようなものがないかとか、ちいさな”入り口”を探してしまう。
出勤後朝一番で、人影のない通路とか、まだ誰も立ち寄っていない時間のガーデンとかを歩いて写真を撮ってしまうのも、そんな希求がベースにある。
そこで思いがけず”なにか”と遭遇できたり見つけられたりしたらうれしいけれど、実は、自分の想像力が刺激されてなにかことばが生まれてくるだけでも幸せなんだ。
「異界」の存在は、そういう幸せをももたらしてくれるということ。
たしかにそれは在って、このわたしが生きている現実世界と共生している、と信じたい。