なるほど、と腑に落ちる哲学。ソシュールについて
高校生の頃、哲学の研究にハマっていた。
特に興味があったのは西田幾多郎という哲学者で禅仏教の哲学論理化で有名だった。
いくつも哲学書を読むなかで最もなるほど〜!と腑に落ちたのはソシュールだった。
その当時の私にとっては、まさに天動説から地動説になったようなコペルニクス的転回だった。
彼は言語哲学の研究者で近代言語学の父と呼ばれている。
彼の学説は言語学以外の分野でも応用・類推できるので紹介したい。
言葉ってなんだ?
キリスト教社会では言葉はとても重要なものとして位置づけられている。
初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。
ヨハネによる福音書1章1節~3節
聖書の冒頭からして、言葉は神である、と言いきっている。※聖書解釈は諸説あり
言(ことば)とあるが、原語はロゴス(logos)。論理や法則といった意味も含まれている。
キリスト教に大きな影響を受けている西洋哲学では、言葉の指し示すものの実体そのものが真実在として神の世界にあると考えていた。
例えば、リンゴならば、完全な実在としての完璧なリンゴそのものがあり、現実に存在するリンゴはその完璧なリンゴの影のようなものである、と。
言葉はラベルのようなもので、赤くて丸い果物に「リンゴ」というラベルを貼り、円筒型で水を飲むためのものは「コップ」というラベルを貼るものだということになる。
真実在として存在するはっきりとしたリンゴがあるわけだから、言葉はラベルとして機能するものだといえるわけだ。
しかし、それは違っていた。
言葉はラベルではなく、ネガティヴに決定される
有名な思考実験に「テセウスのパラドックス」がある。
ある物体を構成する部分が徐々に置き換えられ、やがて全てが置き換わったとき、以前の物体と同じであると言えるのか、という問題である。
この問題は、真実在のパラドックスといえるし、仏教でいう空とも通底している。
ソシュールの学説を理解すると、このパラドックスが解消される。
まず、言葉はラベルのようなものではない。
言葉で分けられていない未分の世界を想像する。その未分の世界では全てが混沌一体となっている。言葉はその未分の世界を分節する単位であると考えられる。
エスキモーの世界では雪を表す言葉が20語ほどある。日本には雨を表す言葉が200語ほどある。分けることで、この世界を理解しているのだ。
逆に言うと「コップ」という言葉が物体を「コップ」と人に認識(錯覚)させているのだ。言葉が無ければ、実在しないことになる。物体としては存在するが混沌の世界に溶け込んだ状態になる。
言葉によって、この世界を"分けている"のだ。だから、理解した時に"分かる"という。
また、「コップ」を指し示す時、「コップではないもの」ではない(否定の否定)という在り方で言葉は決定されるという。
これは写真のポジとネガのようなものである。ネガ写真からポジ写真が生まれるように、言葉も同じ構造であるという。
だから、完璧なリンゴや完璧なコップである真実在などないのだ。
「テセウスの船」もテセウスの船という真実在はない。完璧な「テセウスの船そのもの」などどこにも存在しない。そもそもテセウスの船と呼んでいた船は私たちがそう呼んだことで分節化していたに過ぎないのだから、初めからテセウスの船なんて存在していなかったのである。
あらゆるものは無自性であり、本質をもたないとする仏教の空も同じ意味である。
無ではなく、「空」であるとは、つまりネガ写真のようなものであるという意味だ。「色」はポジ写真。
色即是空とは、色イコール空という意味だが、写真のネガとポジの関係で捉えれば、理解しやすい。
ソシュールを知らなかった方は上記の説明を読んで、なるほど〜と思ってくださっただろうか。
私は最初にこの話を聞いたときに、すっと腑に落ちたし、あらゆる哲学的な疑問が晴れた。
だからどうした?
こうした考え方は学べば学ぶほど、思考方法のフレームワークになる。ネガとポジの考え方は陰陽道に通じる。
陰陽とは二項対立の考え方だ。何かを考えるときにこの考え方はとても役に立つ。自分でも気づいていない大前提を疑い、反を創造することは難しい。
何故なら、自分の枠組みを知らぬ間に作ってしまっていて、それを気づかないまま過ごしているからだ。
また、言葉が分節しているからそれが存在する。というのは、とても重要なことである。
広告代理店は流行り言葉を作る。言葉があるからヒットが存在するのである。
言葉が無ければ、何も無いということさえも無くなってしまうのだから。
「人は現実のすべてが見えるわけではなく、多くの人は見たいと思う現実しか見ない」
ユリウス・カエサル
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?