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教養と知性、感性について

教養とは論理と理性の範囲に入るものではなく、感性によって感得した知的経験のことを指すものではないだろうか。教養が知性を育む。知性ある者は感性も鋭いと言える。従って、知性と感性とは不可分だろう。

昨日、文化芸術事業を営んでいる友人に招かれ、文化事業に関わる数人と焼肉をご馳走になった。その際に、教養と知性とは何か?という議論に至り、自分なりに理解が深まったので備忘録的に記したいと思う。

理性と論理、感性と知性について

まず、私の認識論の立場は、エマニュエル・カントに従っている。カントは、人間の認識を<感性・悟性・理性>の3段階に分類する。悟性は知性と解釈しても良い。現に、そのように解釈する哲学家もいる。感性によって知得した経験を悟性によって現象として捉える。現象を理性によって概念化し、概念と概念との結びつきを論理抽象化する。これがカントの認識論であり、私が指し示す語の定義と言ってよい。

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論理と理性によって、教養の有無を決定づけることはできない。つまり、論理的推論ができるからと言って、教養があるとは言えない。例えば、数学者や理論物理学者の全てが教養ある人物とは限らない。むしろ、その専門性の高さ故に教養が欠如している人物もいるのではないだろうか。しかし、彼らは理性的で論理的な人物だと言える。IT業界にもそういう合理的な考えを持つ理性的な人物が多い印象である。

また、知識を持っていることやターム(専門用語)を知っていることから、それをもってして教養があるとも言えない。例えば、ある浮世離れした芸術家が、ついこの間まで有吉弘行という芸能人を知らなかったとする。だからと言って彼には教養がない、と言えるだろうか。例えば、「絶対矛盾的自己同一」というタームについて、それを人に説明できるほど理解している人間は必ず教養ある人物であると断定できるだろうか。

「コンバージョン」「ストラクチャー」「KPI」「PDCA」などの横文字を並べ立てている人物が、教養ある人物とは言えない。ちなみに、こういう類の人たちをペダンチストという。日本語では衒学者という。「衒学的である」という表現は、あまりポジティヴな使われ方はしないから、「教養のある」という形容詞からは遠い。むしろ、「キョーヨー」という表現が正しい。「KYO-YO」でもいい。(衒学的という言葉自体が既に衒学的だ)

教養ある人ならば言わないこと

次に、教養ある人物なら、絶対に言わないようなことがある。彼あるいは彼女の言動から教養が伺える。

例えば、「私は彼から愛してもらえない」という言葉からはあまり教養が感じられない。エーリッヒ・フロムの「愛するということ」という本がある。「自分を愛せないものに他人を愛することはできない。他人を愛せぬものに他人から愛してもらえることはない」という有名な格言は、この本からである。もし、この言葉を知っていたとしたら、「私は彼から愛してもらえない」という言葉は発言しづらい。

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他の例を挙げよう。「地球を守ろう」という言葉からも教養が感じられない。地球を守るというのは地球は庇護されるべき存在であると言っている。いつ人間は地球を庇護すべき存在になったのであろうか。この一文からは、エゴや教養の無さを感じてしまい、私が好きではない一文だ。

教養のある人は発言内容に気を遣う。もちろん軽い冗談を言うとか、口が悪いからと言って教養のあるなしは判断できない。昔の知識人には教養のある不良が多かった。教養のある人物ならば言葉を重んじる、というより、否が応でも、本質的な言葉が口をついて出てくる。と言った方が正しい。

コピーライターの鈴木康之氏の「名作コピーの教え」という本がある。彼は、その中で「地球温暖化」という言葉は不適切である、という。なぜなら「温暖」という言葉はポカポカしたような雰囲気で緊急性や危険性を伝える言葉としては不適切である。代わりに「地球温熱化」や「地球熱帯化」というような言葉の方が適切ではないか、と。これこそ、教養のある人物の発言ではないだろうか。この彼のアイディアには、誰もが納得してしまう。感性と知性、そして教養がなければ、このアイディアは生まれない。

感性について

感性とは何か。詩や絵画などの作品を鑑賞することで、感性は養われる。感じる能力である。たまに、「私は絵がわからないんです」「私は音楽がわからないんです」というような人がいる。そもそも、絵も音楽もわかるものではない、感じるものだ。「美味しいがわからないんです」と言われても、大抵意味がわからないか、その人は何か病気を患っていることを疑ってしまう。美味しいとはわかるものではなく、感じるものだからだ。

「わかる」とは夏目漱石が「分かる」「判る」「解る」と使い分けるように、「分化する」という意味だ。「分かる」とは論理的に分析することを指すから理性の範疇に含まれる心的状況を指す言葉である。英語の「I see」も同じ意味だ。「視る」という行いは他の五感と比べて、最も対象が客体的である。例えば、右手と左手を合わせて合掌する。その時、右手が左手を触れているのだろうか、それとも左手が右手を触れているのだろうか。答えはどちらでもあり、どちらでもない。触覚という感覚には主体も客体もないのだ。だから、多くの宗教では、主我同一のために右手と左手を合わせることが多い。対して、「視る」という行いは、視る主体と視られる客体が<分かれている>。だから、「I see」は「わかる」という意味になるのだ。

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だから、「私は絵がわからないんです」というような人は教養と感性両方が疑われる。とにかく、作品を鑑賞し、そこから感じられる自分の心的状況の変化を観察することが芸術の嗜みというものだろう。もっと簡単に言えば、「言葉にはできないけど、感動した...!!」というのが芸術だ。論理や理性などの言葉で世界の全てが表現できて相手に伝わるなら、この世界に芸術というものは存在しえない。理性的な言葉にしても伝わらないものがあるから、絵や音楽、詩や文学がある。

ところで、人間の歴史上、最も相手に伝えたい事柄として芸術作品に昇華されてきたものがある。「あなたのことを愛している」だ。愛の在り方はそれぞれとして、音楽の世界で、クラシックも現代大衆音楽も含めて、いわゆるラブソングのヒット曲は圧倒的に多い。求愛行動は人間が動物である限り、第一欲求に基づく行動なのだから当然といえば当然だ。思春期の頃に、女の子にモテたくてギターやファッションに目覚めたりするのは、捉え方によっては芸術への目覚めと言える。

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古代ローマ時代に「アルス・アマトリア」という恋愛指南書が書かれた。詩人オウィディウスによる著作だ。アルス(Ars)とは芸術を意味するアート(Art)の語源で術を意味する。アマトリア(Amatoria)とは「愛」を意味する。つまり、「アルス・アマトリア」とは「愛の芸術」という意味になる。愛という最も人間が普遍的に表現したい事柄は、即、芸術になりうるということなのだ。

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話が脱線したが、つまり、誰かを好きになった時に、論理的に口説いたりするだろうか。「自分は年収いくらで、どれだけ地位があって、将来にはどのポジションにいるから、あなたにとってメリットがある。従って、これからホテルに行こうよ」というようなことがあるだろうか。いや、たまにあるのだが、こういった口説き方は教養や感性に欠如している気がする。現代日本でオデュッセイアになぞらえて女性を口説いたりするのもキザな気がするが、古代ローマやルネッサンスの時代の知識人はそのようにしたのだと思うと、なんだか教養や感性、まさにロマンがあるような気がする。異性の口説き方にはセンスが出ると思う。

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あー、ギリシャに行きたい。

教養と感性の美しい関係

私は哲学の研究をしていた。フラメンコギターを弾き、デザインを仕事にし、グラフィックデザインからインテリアデザインも創る。フラメンコギターからは、イスラムなどのオリエンタル文化への親しみが生まれた。幼稚園はキリスト教だったため、教会で祈りを捧げることが習慣だった。そして歴史が大好きだ。小さい頃、絵本はギリシャ神話だった。

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だからこそ、アテネに旅行して、パルテノン神殿を実物で見た時の感動は、人生で一番の感動だった。今までの自分の人生で得た知識や教養全てがパルテノン神殿に通じていたのだと本当に感じ、涙ぐんでしまうほどだった。そして、パルテノン神殿はあまりにも美しかった。

だから、感性が教養を育み、教養が感性を育む。と人生経験で思う。感性は芸術に触れることで育まれるが、芸術に触れるとは即ちそれは教養だ。そして、この感性と教養の美しい関係は知性へと通じる。これらの経験を現象として捉える段階に入るのだ。建築こそ、知性の集大成たる芸術である、とは誰の言葉だったか。

ところで、宗教は感性を育むに最も良い仕組みだと思う。教会にしろ、神社にしろ、宗教は五感を敏感にさせる。建築は触覚に、お香は嗅覚に、音響は聴覚に、美術は視覚に。だから、宗教施設とは感性を育む訓練所のようなものに受け取れる。近代以前の宗教施設は、今で言う大学のような研究機関も兼ねているから、"あらゆる芸術と知"が集合する総合人生相談センター兼最先端技術研究所みたいなものだ。教会の音響構造は多層的で奥行きを感じさせる。そんなところで目を瞑ってひたすら祈りを捧げていたら、否が応でも感覚が研ぎ澄まされ感性が豊かになるだろう。

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知性について

感性と教養について語るのは難しいが、また知性について語るのも難題だ。私は知性は目に宿る。と感じている。漫画でも、品性の下劣なキャラクターを描くときには目を野卑に描くし、知性を感じさせるキャラクターには目にそれを宿らせる。ところで、動物を見ていても知性を感じさせる動物は目が違うと感じる。昔、ダイオウイカのNHKドキュメンタリーを見たときに、ダイオウイカは絶対に知能がある、と感じてしまった。ウサギよりも犬の方が、目に知性を感じる。このことに関連して、レオナルド・ダ・ヴィンチの描く女性の目には知性を感じることが多々ある。

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レオナルドの才能は、ドローイング、絵画、彫刻といった芸術分野だけでなく、設計分野、化学、冶金学、金属加工、石膏鋳型鋳造、皮細工、機械工学、木工など、様々な分野に及んでいた。

wikipediaより引用

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「受胎告知」のマリアにも知性が宿っている。昔、東京で展覧会が行われたときに見に行ったが、神々しいオーラを放っていたことを憶えている。

レオナルド自体、すさまじい感性と教養と知性のある人物だった。人類文化史に残る博学の天才だ。男は理想の女性像に自らの欲望を反映する。彼は女性に"知の探求"という自らの欲望を投影していたのかもしれない。

ドワンゴとスタジオカラーによる共同企画の「日本アニメ(ーター)見本市」に出展された「ME!ME!ME!」という作品がある。ここで、描かれる女性とレオナルドの描く女性が、同じ理想の女性像を求めているとは到底思えないだろう。

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日本アニメ(ーター)見本市第3話「ME!ME!ME!」より。

話が、知性と目の関係になってしまい、知性についてから大幅に脱線してしまった。

知性とは、感性で感得した経験を現象化する行為である。現象化の意味が難しいが、感覚的な経験を一連の現象として捉える行為になる。主観だけでものごとに囚われていては知性があるとは言えない。一歩引いた目線で、自分自身も客観的に捉えなければ、感じたことを現象化できない。目の前のことに振り回されていては知性的な人物とは言えないだろう。

知性と感性は不可分

芸術とは、人間の知だ。同時に美しいものを美しいと捉える感性も必要だ。だから知性と感性は不可分の関係にあると思う。知性があるなら、必ず教養があり、すなわちそれは感性がある。ということだ。

ところで、HONNEというイギリスのアーティストデュオがいる。彼らの「Good Together」という楽曲のMusic Videoを創った監督は教養があると思う。(年齢制限がかかっているため、Youtubeで見てください)

このMusic Videoのコンセプトは察するに、David Hamiltonだろう。David Hamiltonもまたイギリスの写真家だ。印象派絵画らしさを写真に取り入れた初めての写真家だ。彼の技法はソフトフォーカスという。

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もし、彼の作品が気になったら画像検索でDavid Hamiltonを検索して見てみてほしい。

以上が、備忘録的に記したいことである。なんだか他にも書きたいことがあったような気がするが、また、思いついたらシリーズ第二弾にしたい。


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